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沈黙ーサイレンスーのsuのレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.0
信仰心の物語。無宗教の身からすると、執着心の物語にもみえなくない。

なんといってもキチジローが印象的だった。切支丹であると言いながら、何度も踏み絵をし、十字架に唾も吐いた。その度に、告解をロドリゴ神父に求めるなど、敬虔とは程遠いキリスト教信仰者の姿を晒すわけだが、それが何とも愛くるしいというか、同情心みたいなものが起きた。キリスト教徒なら、踏めないはずだが、それを何度も踏んでしまう。信仰とは何なのか。棄教したフェレイラ神父が、ロドリゴ神父に、「山や河が変わっても、人の心は変わらない」のような旨を言って、信仰を捨てることの意味をロドリゴに説いていたが、その言葉に信仰というものの一つの答えを見たような気がした。神はいつも沈黙していて、どれだけ問いかけようとも、こちらに語りかけることはない。そこに答えを見つけるのはいつだって自分しかない。キチジローは神が沈黙していることの意味をわかっていて、たやすく踏み絵をやってのけたのだろうか。最後の定期的に棄教を自覚させる踏み絵のシーンで首にさげていたキリストの絵を発見され、キチジローは連行されていったが、信仰とは密かに行うもので、体裁が問題なのではないのだろう。あのシーンは何度も踏み絵をしようとも、キチジローが敬虔なキリスト教徒であり続けたことを証明してくれるようなシーンだと思った。ロドリゴ神父にしても、棄教して余生を過ごしたと語られながら、ラストシーンの火葬される時には、キリストの十字架が手元に映っていた。キチジローと同じだ。信仰の形は変わっても、人の心は変わらない。

何事、社会は所属する組織等において、まずは表面や振る舞いがその集団なりであることを求めてくる。それに従っていてよい時期もあるのかもしれないが、時代や社会が変化すれば、それに執着し続ける人は苦しい思いをする。でも、本質を知っている人は、表面にとらわれない。心の奥底で、人知れず信じ続けることが信仰であって、そんな孤独、神の沈黙に自分で答えを与え続けるという試練に耐えられる人こそ、本当に強い人であるのかもしれないと思った。

ロドリゴ神父が棄教のために踏み絵するシーンで、スローモーションになったのは印象的な映像だった。
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