改名した三島こねこ

沈黙ーサイレンスーの改名した三島こねこのレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
3.8
<概説>

遠藤周作の傑作小説『沈黙』を『グッドフェローズ』のマーティン・スコセッシが監督する真に異色の作品。真の信仰とはなんであろうか。

<感想>

これをマーティン・スコセッシ監督作としてだけ見たのなら「こんな見事な作品も描けるのか」なんて礼賛したでしょう。しかし本作の原作は日本の文豪遠藤周作です。
日本人が基督教を受容しようと執筆したものを、米国人が製作・絶賛するというのを意識すると、ただ名監督の傑作と称賛し喜ぶことになんだか、言葉にしがたい困惑が。

『沈黙』はカトリック教会でも評価が二分されていますが、おそらくこの映画についても同じような評価でありましょう。これは己の基督教こそが正教であり、それ以外は拝聴に値しないという、言ってしまえば自集団中心主義が基にあります。
その頑迷な一面はこの映画の作中おいて、ほぼ全ての会話が英語にて行われていることだけに表れていません。懺悔の行使者が異国の人間的価値基準の体現であるセバスチャンであることなどにもよく表れています。そこに相互理解はなく、カトリック教会はただ異国の盲目を改善しようという自己正当化のみがあります。そしてそれを指摘する一幕をオミットせず、きちんと原作に忠実にしたのはやはり名監督ですね。



さて遠藤周作氏の原案に思いを馳せるならば、本作で最も思考すべきは「真の信仰とは」ではなく「真の宗教とは」とまで規模を拡大したところにあるべきでしょう。

本作における中盤までのキリスト教というのはハッキリ明言すると、悪名高い免罪符と大差ないものです。即物的な救済と、協会の権威をもたらす側面ばかりが非常に強い。ただこれは日本に限った話ではなく、ただ信仰するだけという宗教信徒全員に言えることであります。
その為に即物的な救済が無効となった時、セバスチャンの信仰は揺らぎます。物質的要因から離れてようやく、真に"良く生きるための宗教"を思考し直すのです。

そこでは絵踏や祝詞といった行為や言葉も物質的なものです。信仰の本質は思想。その影響の範囲は他者の精神の質のみに限られるべきで、それを基督教だとか仏教だとかの枠組みにすることさえも本質から外れている。そうであれば基督教という思考停止の枠組を粉々に破壊した、終盤の対談が一番の名場面でしょうね。

天におわす彼等の神は、このような他宗教への迫害と自宗教の正当化をお望みなのかと一度でも考えたことはありましょうや。彼は汝の敵をも認めました。異教徒という敵を敵としてのみしか認識できない基督教。それは果たして聖キリストの宗教でありましょうや。