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単純な出来事
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『単純な出来事』に投稿された感想・評価

アミール・ナデリがCUTの劇中で名前を取り上げた作品の一つということで前から気になっていて、この度CUTの世界に行って西島秀俊に見せてもらった。(大嘘)

で、この内容といえば一人の子供が親の看病とか手伝いとかさせられて町中走り回ったりそうしてると勉強が疎かになるから学校で先生に注意されてばかりで学校が終わったら家帰って飯食って寝て……っていう繰り返しが殆ど続くだけなのだけど、その様がまるで社畜みたいなのに加えて子供にまるで良いことが起こらないから見ていて鬱々とするし死にたくなってくる。

で、そんなクソったれな日常の中でも変化というものは多少あるのだけど、それも前述の通り子供にとって不幸と呼べる部類のもので、最後にちょっと良いことあるかと思わせても結局お預け食らわされるから同時代のアメリカンニューシネマ並みに遣る瀬無い気持ちで見終わることとなる。

しかもそんな暗い話をネオレアリスモと小津をかけ合わせたような写実的タッチで描いていて、暗いけど映像的には好みだから非常に複雑な気分にもさせられる。

ということで鬱な気分になるものの映画としては個人的に良質なものと思えたわけだが、CUTの西島秀俊はムシェットとかこれを客に見せて死にたい気持ちにでもさせたかったのだろうか。

というかこれは他のイラン映画を見ても思うことで、イランには子供に愛情を持って接するという概念が無いのか。
☑️『単純な出来事』(4.4)及び『静かな生活』(4.0))▶️▶️

この作家こそ、イラン映画史上、映画という表現体に最も叶い最も自然にその固有の呼吸と命が育まれ、また、映画・イランとかの共通認識を外した所で最も通用する構えない強靭さを持つ、最良の作家であるは、十数年来云い続けてきた。今回の上映は、『単純な出来事』がちょっと鮮やかすぎる色彩の復元DCP版、『静かな生活』が2Kには程遠い何か朧なアナログ・ビデオベースで、並べるのがおかしいような差があったが、この作家の懐の広さを証明・補完しあうものであることに変わりない。
この作家の長編第1作は、革命以後のスマグラー路線の児童映画を先取り、典型的に見本化したもののように見えるが、キアロスタミの素朴・簡潔に、映画機能・表現を一点の瑕疵のないような、社会と心情・魂に向けても万全に力をもつ、円満に完結してみせてる運動体とはかなり違う性格のものである。確かにそれに近い映画が映画として誇りうる姿を踏み実現している。が、反復の妙・アクシデントを描きながら、ショットの長さ・繋ぎ・角度・リズムに、はみ出し・異質の力が常に感じられ、それは映画のジャンル・傾向・流れの歴史的な主調から別の息吹きに向かっている。主人公の少年・担任の小学校教師、共に典型的イラン人というより、窓の外へ向かう視点・諭しの柔軟性等(少年は見たこともない)この地に馴染みきれてない居心地の悪さ、その内には西洋の世界・価値観に無意識に向いてる内在的非イラン人的様な風情が作品の内的温度を下げる。少年が学校帰りの、父の川の漁の相方へ向かい、その魚をこっそり村の店に届け、その代金を酒場の父へ届ける、その一部でパンを買って病身の母に持って帰る、日々の繰返し、その走るLショットが長く・そしてどんでんで返されてくも、カット尻が長く、そして位置・角度の切り替えも縦に収まらず斜め横に流れてる気がする。これはどこかで非日常なのだ。また、関わり・反応する人達の捉えは、速さ・角度共に極めて鋭く正確なデクパージュで介入してきて視覚的に驚かされる。そして、少年本人にも、母が亡くなった後の夜の、寝る時間ながら心理にもフィットし・母の咳の幻聴もあるような暗く惨めな空間にいる自分を自覚し、初めて心を折って・息子の為に上等な服を買おうとする父の姿を見もする(高価であっさり取り止めるが)。
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次作長編『静かな生活』、’60年代初めの踏切手動・上げ下ろし操作係の老国鉄職員とその妻の日常の繰返しと味わいを描きながら、会社員上部の気紛れで杓子定規な定年退職でそれが突然とぎれる宙ぶらりんぶりを描く。ここでは描写は、より自然であらゆる要素が呼応し、それに対し作中人物は、受容的・従順で苦悩の生まれにも敵を見出ださぬ、おどおども美しささえ表す。 踏切辺の、列車の来る・去るや、作業とふたつの小屋への行戻り、上司らの訪問と対応は、ロング中心にカメラ位置や構図、カット・角度・サイズはこぼれるものなく、完全な対応・呼応の図としての正確さ・芳醇度を表し、扱きってる。ぽつんと立ってる狭い従業員宿舎でのやりとりも、妻ら(兵役の息子が移動中に訪ねくる)家族・食事・寝起きを捉え、視界の俯瞰め寄りめ、手元のアップの入も最適で、狭いなかでの、カメラポジションの定着・バランスはしっとり・ふくいくとしている。都市の本社へ談判にも行こうとするが、意識もされず空かされる。社会の型偏り・歪みは個々の行動を通してではなく、全体の機能してる筈の部分間の本質的分断性・偏りから感じられきて、不思議なユーモアともなっている。
maemae
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むこうにいったりこっちにいったり
土の感じとか、暇すぎる時の視線の折り合い、特別な時間