数年前に制作されたドキュメンタリー映画『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』を思い出させる、謎めいたアマチュア写真家ヴィヴィアン・マイヤーの生涯。名前の正確な発音さえ不明なダーガーと、様々な偽名を使い、本名さえも数通りの綴りで書いていたマイヤーなど、名前からして謎めいた2人の非凡なる無名の芸術家は、どこか共通する変人ぶりを発揮している。生前に作品が世に出ることもなく、静かに生涯を終えた2人だが、彼らの生きた証は、その膨大な量の絵画・ネガが雄弁に物語っている。
このドキュメンタリーを見始めてすぐ違和感を覚えたのは、監督であるジョン・マルーフの露出が多すぎるのではないか、ということだった。大抵、どんなドキュメンタリーでも作者はカメラのこちら側にいて、ストーリーテラーに徹しているものだが(まあ、マイケル・ムーアなんかは違うタイプだが)、このマルーフ青年はヴィヴィアン・マイヤーを発見した経緯を嬉々として話し始める。しかし、やがてこれが単にヴィヴィアン・マイヤーという謎めいた女性の生涯を語るシンプルな物語などではなく、数十万枚にも及ぶ未現像のネガを掘り当てた青年が、好奇心に駆られて地道なリサーチを続け、かつての彼女を知る人々を見つけ出しただけでなく、彼女のルーツであるフランスまで親戚を探しに行くという情熱の物語でもあることが明らかになる。彼女が残したあらゆるもの(ネガ、メモ、レシート、新聞記事、録音、ビデオ、手紙、ガラクタ)を片っ端から調べ上げ、その熱意によってマイヤーの生涯が少しずつ明らかになる中、被写体たちが自らの過去との再会を果たしているあたりなど、なかなか感動的だ。
彼女について思い出を語る誰もが、時に困惑したような表情を浮かべているところに、その人となりのユニークさが垣間見える。彼女は家政婦(職業に貴賎はないとはいうが、アメリカでは「身分が低い」とみなされているらしいことは、インタビューを受ける人々の言動の端々から感じられ、少し嫌な気分になったのは否定しない)として様々な家庭を転々とすることで、ある意味自由を手に入れた。いつも首からカメラを下げ、仕事先の子供たちを連れて公園や街だけでなく、彼らが足を踏み入れないであろうスラム街にまで足を運び、思うままにシャッターを切り続ける。そうした日常のあらゆる瞬間をネガに収めようとする行為は、ライフログに熱中する現代の風潮に通じるところがあるように感じた。彼女にとって、面倒を見ている子供の事故さえも記録すべき瞬間なのだ。そういう意味で、彼女はとても現代的な感覚を持っていたように見える。ただ、私たちの多くとは違って、彼女は構図の切り取りかた、被写体の選択、その距離感など、類い稀なるセンスを持っているのだが。それなのに彼女は作品を発表する勇気を持てず、たくさんのガラクタと一緒に溜め込んでいたのだから、気軽にアップされたちょいおしゃれなインスタ写真とか、もう嫌になっちゃうな。やめよ。
2017. 19