映画漬廃人伊波興一

エレナの惑いの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

エレナの惑い(2011年製作の映画)
4.0
不可視のイメージに引き寄せていく罠。そこにハマって映画の戯れが始まる

アンドレイ・ズビャギンツェフ
「エレナの惑い」
 
あらゆる意味で(自由)であるべき筈の映画を(このように観なさい)などと押し売る気持ちなどさらさらありませんが、画面のつなぎに留意する醍醐味くらいは知っておいて損はない、と思います。

一本の映画の中にいったいどれだけの画面があるのか?上映時間や作家性によってまちまちでしょうが、500や600は下らないだろうと思しき画面の数々を素人や才能のない者がやみくもに繋いでみたら(気ぜわしい)か(ただ緩慢)といった印象しか残らぬもの。
 
映画好きなら大抵の人がひとつやふたつ例を挙げられるでしょうが、ふたつの画面を続けた時、新しいショットが始まったような印象を回避させる手法。

たとえばひとがどこかの店で食事をしようとするシーン。
箸を手にしようとする途中でやめて、店から出てくる所は次のショットになって遠くから見ているという、あのつなぎ方ですね。

留意すべき点はシーンの要である食べるという動作(アクション)を聡明に回避して、観ている私たちに何が起きていたか、を理解させる手法。

ナジェジタ・マルキナ演じるエレナがアンドレイ・スミルノフの夫から(こっちにおいで)と誘われた後.次の場面では下着姿のエレナが服に着替えています。
まるでアメリカのスクリューボールコメディーの伝統に乗ったプロ仕様です。

一連の中で肝心要のベッドシーンが大胆に回避されているのはそれがメイキングラブシーンとかエロチシズシーンなどではなく、エレナの打算が介入されているから、と野暮な説明は当然不要です。

ジムのシーン。夫がその場で筋トレマシンに精を出す女性に見惚れた視線を注ぎますが、次の場面ではひと息つこうとプールから上がった、まさにその女性が慌ててまたプールに飛び込みます。
真上から撮られる夫が溺れて浮かんでいる場面。

さらにエレナが用意したクスリを夫が飲む。
当然エレナが夫の死を確認する場面に違和感なく繋がります。

前夫の間に出来た家族と別れた後に繋がる場面は弁護士事務所。
夫の前妻の娘と相続に関する案件の確認するシーンになるのは言うまでもありません。

そしてラストの家族団らん場面の次の画面は観ている私たちの残像に委ねられています。

全て肝心要の動作(アクション)がカットされて、一切の説明がない。ですが観てい私たちには全てがわかる。

前夫との間に出来た息子の子、即ち実の孫の為にある一線を超えてしまう女の決断という非常に分かりやすい物語ですが、可視的なイメージよりも回避された不可視的イメージの方に引き寄せていく罠にハマっていく事が映画的な戯れに他ならないと思うのです。
 
本作『エレナの惑い』を手放しで推奨したい訳ではありませんが、(親切すぎる)場面繋ぎが近年際立ってる気がする日本映画にもっと積極的に仕掛けて欲しいトラップですね。

モンタージュ理論で余り有名なエイゼンシュテインからタルコフスキー、パラジャーノフ、ソクーロフに至るまで、プーチン政権下のロシア新世代の旗手・アンドレイ・ズビャギンツェフという私と同世代のまだ若い(!)映画作家。過去の映画を相当豊かに勉強した人のようです。