“映画”と“音楽”の関係性についてのコンセプチュアルな探究。
光を固定する発明が生まれ、音を固定する発明が生まれ、それがいつしか出会って、映画が音と共に過ごすようになった。
だが、光も音も、どちらも波。同じように記述ができる。
それを象徴するように、何度も波が映し出される。生き物が海の中から生まれたように、光も音も、波から生まれた。
ものに光が当たると、影が生まれる。影は、ものがそこにある証。
“映画の言葉”にとっての影は、字幕だろうか?
大きさを変え、位置を変え、色を変え、濃さを変え、言葉が放たれるたび字幕は画面に姿を現す。
荒波のように言葉の音が押し寄せる中でも、字幕が姿を現せば、少なくともその言葉は、そこにある。
デレク・ジャーマンの「BLUE」観た時も思ったけど、こういうコンセプト重視の映画って映画館じゃないと観るのが大変だと思う。家のテレビじゃ周りに邪魔なものが多すぎる。
勝手に藝大っぽい感性だな〜と思ってたら、全然ベテランの監督でした...