如月

シン・ゴジラの如月のネタバレレビュー・内容・結末

シン・ゴジラ(2016年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

先ずは一番の引っ掛かりポイント。

ゴジラは核エネルギーを消化しているのでは、という仮説を立てた尾頭課長補佐に、映画公開当時はまだブレーク前だった高橋一生扮する安田文化省課長が言う台詞が、以前から不可解だった。

台詞はこう聞こえる。

「冗談っぽいです、尾頭さん。ありえませんよ。」

安田は尾頭の突飛な発想に、「冗談言わないでくださいよ」と言っているのだが、

冗談っぽい?だって?なんだそれ。「冗談みたいに聞こえる」ってこと?

というように、なんか変な台詞だなぁと思っていた。

さて、「アート・オブ・シン・ゴジラ」という本には、台本が付いている。

そこで、この気になる台詞を探してみた。すると、台本には、こう書いてあった。

「冗談ポイです、尾頭さん。」

なるほど、そうか、と僕は膝を打った。

安田は尾頭に「冗談はポイしてください」と言っていたのだ。

さて、話は変わり、映画のクライマックスで、政府はゴジラに対し「無人在来線爆弾」という攻撃をしかける。

よくよく考えると、これはギャグなのだが、僕は笑わなかった。

6回も映画館でこの映画を観たが、僕だけでなく、どの回でも誰も笑わっていなかった。

後日、自宅で姉とDVDで観た際、その時が初見だった姉が「無人在来線爆弾って!!」と笑っていた。

姉も映画館で観たら、笑わなかったかもしれない。

それくらい、上映中の劇場内の雰囲気は緊迫していて、それまで観た事のない何かを観た、という興奮と、どこか既視感のある、中盤までの悲劇的な展開に飲み込まれていた。

ギャグがスルーされたのはそういった雰囲気によるものだろう。

では、家で観ると違ったのか?

確かに違った。

蒲田に上陸したゴジラ第二形態の姿に、映画館の観客は息をのんだ。

だが、家のDVDで観る第二形態は、正直ちゃっちかった。

元々指摘されていた事だが。この映画でのCG加工は詰めの甘さが目立つ。予算や期日の影響が大きかったからだろうが、CGのちゃっちさが、DVDだと残酷なくらい露わになっていた。

映画館だと大きなスクリーンに、バーーン!!という感じで第二形態が出て来る。

当然「うわー!」と観客はなる。

TVのスクリーン上の第二形態は可愛い。

楽しそうにヨチヨチと歩く。

「うわー!」とはならない。

正直、第二形態が出て来るまでは、姉も息をのんでくれると期待していたが、のまなかった。

「なんじゃあれ?」とだけ言った。そして僕を見た。

なんで、弟はこれに熱狂しているんだろう、という困惑した表情で。

そして姉はあろうことか途中で居眠りを始め、高橋一生の声が聞こえた時だけ眠そうに画面を眺めた。

ところで、「シン・ゴジラ」は同時公開の「君の名は」と共に大ヒットを記録し、社会現象になった。

その理由は同じだと思う。

この二つの映画は、現実を超える現実を作り上げたのだ。

だが、その方法論は全く違う、というよりほぼ真逆だと思う。

「君の名は」が写実的に「映える絵」を持って、SNSの「盛る文化」全盛に生きる今の大衆の要請に全面的に答えた。あの映画の中の街や自然の美しさは、インスタ的美しさの延長線上にあるものだ。そこに人を選ぶ美意識はない。あるのは好みの「程度」だけだろう。「まぁまぁ良いけど」から「最高」の間に、多くの感想は当てはまるはずだ。

「シン・ゴジラ」はそうではない。「シン・ゴジラ」は、廃れていく特撮という伝統芸能を蘇らせたい、という思いがあり、「必ず主人公たちが恋愛する」という、ぬるま湯的な日本映画のヒット論に対する作り手側の嫌悪や反骨心があり、低予算ドラマの演出法として編み出された極端なアングルや、アングラ舞台、古い日本映画等におけるカルト的なスピード感による台詞の応酬といった、今ではマイナーになっていた表現文法への監督の偏愛があり、CGのコストは削ったのに、一般非公開の官邸・総理執務室は異常なまでにこだわって再現するといったバランスを欠いたリアリズムの追求があった。

一言でいうと、変態的な作品なのだ。

では何故、「シン・ゴジラ」は「リアルな作品」として受け止められたのだろうか、

それは「ゴジラを目の当たりにした政府が、困惑しながら一応対応する」という姿が圧倒的なリアリティを生んだからではないだろうか。

今までの怪獣映画であれば、見せ場を作るために、自衛隊なり、科学戦隊なりがさっさとビーム攻撃をしかけたが、今作では、初めての攻撃をするのに30分程度はかかっている。映画のほとんどは起承転結でもなく、初めての事態に対して「どうしよう」という会話劇で成り立っている。

行われているのは物語ではなく現実のシミュレーションなのだ。

それは「ファンタジー要素を現実世界に一滴だけ垂らしたら、何が起こるだろう」という、思考実験の様なものだ。垂らすのは一滴だけだが、劇薬である。だが、一滴だけなので、残りは「現実」という真水であり続ける。

「ファンタジーの一滴」がどう現実を侵食するのか、それをつぶさに検証したのが「シン・ゴジラ」で、出されたデータに対して我々観客は新しいリアリティを見たのだ。

ただ、「一滴のファンタジー」は、濃度が濃いものでないと、たちまち現実に対して薄まってしまう。第二形態は映画のスクリーンだろうが、テレビ画面の中だろうが、ヨチヨチと可愛く見えてはいけないのだ。

さて、「シン・ゴジラ」の制作陣は、現在「ウルトラマン」を作っているそうだ。

「ウルトラマン」は「シン・ゴジラ」と同じ様に変態的かつ、現実の在り方に目を向けたものだろうか。きっとそうなるだろうし、今度こそ、特撮やアングラ表現にさして興味のない姉に息をのませて欲しい。

このご時世、多分見るのはテレビになるだろうから。
如月

如月