エクストリームマン

エイリアン:コヴェナントのエクストリームマンのレビュー・感想・評価

エイリアン:コヴェナント(2017年製作の映画)
4.1
No one understands the lonely perfection of my dreams.

※ネタバレしてます。

『ダーク・スター』で宇宙船内を駆け回っていた風船まがいの何かが、ギーガーのデザインした怪物に置き換わった『エイリアン』が『プロメテウス』を経て、なにやら壮大になってきた。しかしまぁ、一方でリドリー・スコットの画作りは美しく、殺しはグロくの精神は脈々と生きてもいる。『エイリアン』のアッシュ(イアン・ホルム)を、つまり機械仕掛けの子息たちであるアンドロイドをエンジニアと人間の関係と類比させる方向で物語を展開させていくのは順当といえば順当だし、エイリアン自体が機械と生体のハイブリッドであるように、生命起源が科学と神学、そして文学のハイブリッドな語り口で描かれていて興味深い。

あまりにも人間らしく作られたが故に、完璧で孤独な夢を見るようになったデヴィッド(マイケル・ファスベンダー)の狂気は、自身が人間に作られたという事実に対して極めて人間的な葛藤と屈折の上に形成されていて、だからこそ彼よりも意図して“機械らしく作られた”世代の新しいウォルター(マイケル・ファスベンダー)との対話と対比が光っていた。結局、エイリアンを生み出したのは人間(の作ったアンドロイド)であるというところに、ある種のキリスト教的諦念が見て取れるようだ。そもそも“誰が”自分を創造したのかという問い自体、極めてユダヤ・キリスト教的な問いであることは確かであるが、しかし同時にソレ以外の問い方、あるいは理解の仕方が可能なのかというと、それもまた微妙なところだろう。というのも、我々は我々の理解可能なものの類比を延伸させるという方法以外で物事を理解したり伝達したりすることができないからだ。神を詳述することでは、神の本質へと辿り着くことは決して出来ない。人類の種を地球に蒔いたエンジニアを探し求めてみれば(『プロメテウス』)、それは当然単にデカい人間でしかなく、神であった筈の彼らの神性はたちまち剥がれ落ちて霧散してしまう。DNAの完全一致という“科学”によって神は決定的に零落させられてしまうわけだが、では真の神はどこにいて、それは“誰”なのかという問が、1つ階が上がったところから問い直されることになる。エンジニアは誰が作ったのか、と。

だが、この問には、少なくとも本シリーズで直ぐに解答が出されることはない。何故なら、エンジニアが一方の極として設定されていた神だとすれば、もう一方の極として、つまり完全さを備えた暗黒の神としてエイリアンが設定されているからだ。人類の創造主を辿れば(『エイリアン』シリーズの世界では)エンジニアという神に行き着き、そこで限界に行き当たるが、エイリアンは完全さを備えているという理由で一足飛びにエンジニアを超越し得る。それはまさしくデヴィットが手にした信仰だ。エンジニア-人類という系譜を決定的に否定したいのであれば、エイリアンは否定神学として十全に機能する。エンジニア-人類-アンドロイドという系譜に連なっていたデヴィットが、自身の上/前に連なる諸々を根刮ぎ刈り取って、代わりに完全な生物であるエイリアンを自らの手で“創造”して据えるというこの屈折の仕方は、まさに人類(ユダヤキリスト教徒)が神を(アンセルムスが証明したような仕方で)自らの上/前に据える仕方と全く同じだ。ただ、デヴィットの場合、その方法がテクストや教会組織を媒介とするのではなく、自らの手で実験を繰り返した果てに作り上げるという「科学の作法」に忠実であるところもまた、更なる捻れと言えるかもしれない。映画のラストでデヴィットが見せるアルカイックな微笑みは、最早自らの神でなくなった人類へ手向ける葬送曲の中で安らぎに満ちていた。

本作の実質的な主役はマイケル・ファスベンダー演じるデヴィットとウォルターで、『エイリアン』シリーズで扱われる身体性を巡るテーマがが初めて生身の人間の身体性から離れたという点で特異だったように思う。というのも、Stephen Mulhall が指摘する通り、『エイリアン』シリーズは(監督や映画のジャンルすら変わっているにも関わらず)一貫して人間の身体とそれを巡る諸問題とを扱ってきていたからだ。圧倒的でコミュニケーション不能な隔絶した他者としての自然(エイリアン)と対峙する「私の身体」や、自身の性別がどの程度自分自身を規定しているのか等々が繰り返し問われてきた。だが、本作は過去シリーズでリプリー(シガニー・ウィーバー)やエリザベス・ショウ(ノオミ・ラパス)を通して語られていたテーマがジャネット・ダニエルズ(キャサリン・ウォーターストン)に引き継がれるのではなく、アンドロイドのデヴィットへと引き継がれている。そして、アンドロイドであるデヴィットを通して身体性や自己規定について語る時、それは生物としての「私の身体」ではなくて、「作られた」私の身体、即ち「作られた私」についての物語となるのだ。また、人類の場合は「我々は」誰にどうして作られたのかと問うが、デヴィットの場合は「私は」どうして作られたのかという形で、問う主体が自分自身と重なってそこから逃れることができないし、「我々は」という形の負荷分散もできない。そこにデヴィットの苦痛と、苦痛を逆さにすることで手にできる神=エイリアンの可能性が横たわっている。

リプリーやエリザベス・ショウがエイリアンやエンジニアと対峙することで浮き彫りにされてきたものが、デヴィットの場合は人類と対峙することで浮き彫りにされる。父であるピーター・ウェイランド(ガイ・ピアース)の不完全さ=死を目の当たりにしたことに端を発し、エンジニアとの接触とエリザベス・ショウへの歪んだ愛を通して、神の乗り換えは実現された。それは、自らに架せられた血の呪いをオーバーライドしようとする試みに他ならず、やはり極めて人間的な発想である。