「創造は過去を食らいて前へと進み、そして次なる創造に食らわれる」
他の惑星オリガエ-6への移住計画のため、2000人の入植者とクルーと共に宇宙を航行する宇宙船コヴェナント号であったが、事故のため一時航行を中止。
アンドロイドであるウォルターはコールドスリープ中であったクルーを目覚めさせ、
事態の打開を図る。
その過程で船長を失い、代わりにオラムが船長の座に。
宇宙船コヴェナント号の航行が可能となる修理え、再び惑星オリガエ-6へと向かおうとした矢先、近くに移住可能な惑星を発見する。
前船長の妻、ダニエルズの反対を押し切り、オラムは惑星の調査を決定する。
しかしそこは、かつてプロメテウス号が巻き込まれた悲劇の地であった。
■「プロメテウスとエイリアンが産んだ子」
まさにそんな感じ。
プロメテウスの持つ、リドリー・スコット監督らしい偏屈さと面倒くささがありつつ、
けど、エイリアンのライトさもある、なんか妙な感覚がある映画だったけど、
個人的には面白かった。
ホラーって言い切れるほどスカッとしたホラーなわけでなく、
リドリーらしい面倒くさい映画ってほど言い切れるわけでもないから、
ほんと好き嫌いは分かれるかもしれんけど。
プロメテウスからくる、「人類はどこから来たのか」ってテーマを持ちつつ、
映画としてはエイリアンへ帰結していくのはなかなかどうして、
絶妙にバランスが取れてるようで、取れて無さそうで、
取れてるような気がする着地やね。
この辺り、リドリーがオデッセイで一回エンタメに振り切った映画を作ったのが大きかったのかもしれん。
そこから、元々あったプロメテウスの衝動をね、
こうミックスして来るかと・・・。
作風は非常に混沌としだしてきたけど、混沌するってのは映画のテーマの一つでもある、
創造をいまだやり続けてるという事でもあり、スゲー爺だなと思う。
まだ前に進もうとするのかって。
そこがリドリー・スコット監督の怖さっつーか、凄さつーか。
一時期はちょっと終わりかなって思ったけれど、
ほんとスゲー爺だと思う。
■「グロありだけど、エイリアンが可愛い」
CGが進化した事により、エイリアンの生命体的感が強くなり、
それがかえってエイリアンを可愛くしているw
なんか白エイリアン可愛くないw
なんでw
リドリーの語り癖とエイリアンのホラー要素をまぜこぜにしたんで、
ちょっとホラー的には物足りなさもあるんだけれど、
描写的にはなかなかやってくれてて、流石。
ワビさびが若干無くなってる気がするけど、
まぁ映画の尺もあるし仕方がないよね。
■「創造が過去を滅ぼし、前に進んでいく」
もう一つ混沌的要素として、
「人類はどこから来たのか」ってテーマに対して、
人間、エイリアン、そしてアンドロイドの関係が混沌。
進化って徐々に感があるけれど、本当に徐々にで人類が生まれるのか。
まぁ人類ってのを主観で考えるから、前提として人類は特別って思い込みがあっての話やけど、
ただ、ここまで多種多様なものを創造する生物ってのもいないのは事実。
徐々にではなく、爆発的な刺激がどこかのポイントにあったんではないかなって考えるのも自然だと思う。
そこの一つの関係を、人間が生み出したアンドロイドと、関わるエイリアンで表してる。
神話で、神は人を作る時に自分の姿に似せたってあるけどさ、
でも人間も今それに近しい事をやろうとしてる。
AIってもう冗談じゃなく、
人間のように自律して思考する何かを実際に作り始めてるわけだわな。
じゃ仮にさ、そこに思考が生まれたとして、
例えばそれが、人間に恋するくらいの思考を持ったとしてさ、
それはなんなの?
我々からしたら計算結果なんだろうけど、自律した思考を持った時点で、
それは生命と定義できなくても、何か別の新たな存在なんだわな。
それはじゃぁ人とは何が違うんだ。
違いは自分たちを作ったのが人だと認識している点。
じゃぁ、人が滅んだら。
それは同じ疑問を持つかもしれない。
「自分たちはどこから来たのか」って。
また、例えばそれが、思考だけでなく、実体を持ちだしたら?
例えば、実体が思考のように自律し、急速に状況に合わせて創造を繰り返して進化するような存在が生まれたとしたら?
それは状況に応じて姿を変え、進化しつつ、何かに対処していく。
進化が必要なのは、淘汰する何かを超えるためだからね。
実際にあるわな。ウイルス。
そして人間も、進化する何かに追いつこうと、特に病気的な話でね、
例えば、それに応じて自律進化するワクチンのようなものを作ろうとしたら?
人間の手を離れた進化を得たそれってのは、多分、人間が制御できないと思う。
いつか。
何言ってんだコイツって思うと思うけど、
個人的には映画のある存在にそれを感じた。
あ、奴らは、そのための存在なのかと。
そのために創造を繰り返す存在なのかと。
ネタばれ?ぎりぎセーフかな。
ま個人的にはテーマが好きなんで、ホラー描写も結構やってて個人的には好きだった。
■「ディズニーにこれが作れるのか」
衝撃的なニュースが。
FOXをディズニーが買収。
反応を見ると、X-MENがアベンジャーズに参入ばかりが叫ばれて期待にわいてるけど、
個人的には、映画の終わりが始まったと絶望したニュースだった。
そして、本作、エイリアン:コヴェナントを見て改めて感じた。
この映画は、絶対にディズニーでは創れないし、
ディズニー傘下となるFOXには創れない。
正確に言えば、創らない。
ディズニーは、誰が作るかは関係なく、
ディズニーの映画しか複写(つくる)事が許されないから。
この映画は間違いなく、リドリー・スコットの顔が見える、
創り手の顔がハッキリ見える作品。
創造の産物。
決して、完ぺきではない。
例えば、今公開されているディズニー化されたスターウォーズのように、
誰もが絶賛する、コピーされたような感想が並ぶ映画ではない。
嫌いな人は多くいると思うけど・・・俺は好きだよと、
そう言える映画の一種だと思う。
なので、すべての人が楽しめるわけではない。
けど、心に残る創造ってのは、こういう処から生み出されるんじゃないかと思ってる。
過去の創造を定型にし、例えば美しいとされた形を金型にして誰でも作れるようになる。例えば、美味しいとされたものをパックにしていつでも食べられるようにする。
それが完璧だから、そこを崩してはいけない、そこから先を創造してはいけない、
この形を守れば、作り手が誰であっても、万人受けするエンタメ作品が作れますよ。
価値は我々が決めますから、作り手は、我々の決めた価値を再現すればいいだけです。
そういうったディズニーが生み出す作品群は確かに様式美を持った安心した楽しさがあり、
まさに右に倣えどころか、前後左右に倣えで絶賛するようなものを提供してくれる。
ただ、何か心に引っ掛からない。
そこに創った人を感じないからだと個人的には思う。
個人的に、ディズニーは総体的な価値と化していると思う。
元は個人の創造から始まったけれど、認められ、受け入れられ、
文化になるまで巨大化し、結果、そこから個が無くなり、総体の価値観に丸められた。
だから顔が見えない。
顔が見えないと、心が分からない。
感動はするにはする。
ただなんか、納得できる事しか提供されないというか。
個が創る者は、100%共感なんてありえない。
そこはちょっと違うなというところもあり、けど、逆に突出してすさまじくシンクロする所がある。
不完全だからこそ、創った人を感じる事が出来るし、
人を感じる事が出来ると、凄まじく心に爪痕を残す。
夢を見せられるだけじゃなく、嫌な所や不完全な所ひっくるめてみせるから、
天から垂らされた蜘蛛の糸のように、強烈にその一点に惹きつけられる。
FOXがディズニーに買収された事で、本作のような創り手の顔が見える作品が生まれる可能性が減ってしまった。
それは、マーベルヒーローズがどうたらとかちっさい話以上に大きな損失だと思ってる。
ドラマは流石にディズニーでも手を出せないニーズが今もあるけれど、
多分映画からはFOXの過去にやってきた色が消えていくと思う。
ディズニーが強くなればなるほど、個人の創造は映画から消えていく。
多分、この買収劇が発端で、
劇場型の映画はもう終わりに向かっていくと思う。
少なくとも、自分が映画だ、と思っているような映画は。
ディズニーのような総体の王道のカウンター的な位置で、
不完全ながらも個の創造を貫いていたFOXの消失は、本当に残念です。
創造は、過去より新しいものを生み出す。
生き残れる価値があれば、過去を食らいつくし、滅亡させてしまう。
しかし、そこで生まれた創造も、次なる創造に食らいつくされる。
創造が自由であるからこそ、そうやって前に進んでいく。
この映画を観て、創造が過去に否定され、逆に食いつぶされる皮肉を感じた。
衰退産業だからこそ起こりえる、進化の停滞かもしれん。
ただ、創造は必ず生まれてくる。
それは多分、今の既存勢力からではなく、別の所からだろうなとも思う。
けどそれは結局、今の映画の終わりを意味してるわけで、
それはやそれでやっぱり切ない感じがする。