エクストリームマン

美女と野獣のエクストリームマンのレビュー・感想・評価

美女と野獣(2017年製作の映画)
3.5
You know she will never love him.

歪な寓話がディズニーフィルターを通すと大ヒットするのはいつものことだけど、実写化でも例に漏れず……あ、でも『マレフィセント』とか『シンデレラ』とかあったよね。あれらはなかったことになったのかな。戦略として、話は割りとそのままに、ビジュアルは豪奢に、今風のテーマを織り交ぜて、トドメにエマ・ワトソン。

ドクター・ドリトルをエディ・マーフィでやってしまうほどではないにしろ、そんな排他的で旧態依然とした村で黒人がしれっと混じってる筈ないんじゃないのとか、そういう意見は多様性だからってことで押し通るのかな。でも、(差別も含めて)時代感って大事な気がしていて、何故ならその時代とその気風だからそんなことが起こるって側面も多分にあるわけで、ユニバーサルかつインターナショナルに売りたいしポリティカリー・コレクトネスにも気を遣って見せたいのもわかるしそれが大事なことは否定しないけど、諸々を剥ぎ取り過ぎて何一つカドがなくなってもまたそれはそれで物語る意味が薄まっていく気がする。人種差別はさっぱりなくなったけど身分差別だけは残ってるとか、そういう描き方してる時に為される選択って、彼らが奉じているもの的に「正しい」ことなの?

まぁいいや。

本編について。

おとぎ話の魔女や精霊に文句言っても仕方ないのはわかっているけど、あの城の王子以外の人々が一緒に呪われてるのは完全なとばっちりだよね。ただ見てるだけだったから呪われても受け入れて心中しますって、そりゃ大人すぎやしないか。そもそも王子にしたって、何故特定の魔女に裁かれなきゃいけないのか謎だ。魔女が当たり前に存在して、気紛れにああいうことされる世界だったら、全体的に人間は萎縮して、毎日下向いて歩いて、文明とかも進歩しないままな気がする。

本編の物語部分で気になったのは、ビーストがどのくらいの期間ビーストだったのかということと、奪われた記憶についてかな。この2つは関連していて、呪いが解かれた後に城の従業員(現代風)と村人何組かが家族だったと明かされるわけだけど、そうすると村人側が判別できる程度でしか変化していない(加齢していない)ということになる。長くても十数年?下手したら数年?ビースト、堪え性がなさすぎやしないか。そうじゃなくて、原作通り呪われてから数百年経っているとすると、城だけじゃなくてあの村も同じように時間が止まっていたということになるのかな。そうすると、外の村と交流できているのが何故かわからなくなるけど。魔法って不思議だ。

あと、やっぱり元の物語から一番納得できてないのは、ビーストが王子に戻るところだな。それまでの全部いらないじゃん。色々経由した結果、やっぱ見た目だよね、みたいなことなのか。真実の愛を知ったから、もう許してやるってことで元に戻されるの?見た目じゃない、財産だって話だったのに、そこもなくなったら、脚を手に入れてかつ泡にならない人魚姫じゃないか。

ビーストの造形がヌルくて、もっと手に負えない怪物感だしてほしかったな。それだけでもあれば、また印象違ったのに。