記録用
ラース・フォン・トリアー監督作品。
あるIT企業の社長が社員たちに嫌われたくないため架空の社長の存在を作り運営していた。しかしある交渉で社長本人が不在であると進められないため売れない役者を雇い架空の社長を演じてもらい切り抜けようとするが、、、。
今までの作風と打って変わり純度の高いコメディ作品。
いつものの凝りに凝った映像美は鳴りを潜め少ない空間でのシュチュエーションコメディだ。
しかしいつもの演出上の自縛として「オートマビジョン」を導入している。
このオートマビジョンというものは監督がカメラの位置を設定するがパンやズームはコンピューターがランダムに行い違和感のある不思議な映像となっている。
カメラを自動にすることで映像への追及から距離を離しているが今作の話自体が社員と距離を置いている本当の社長と社内の実情を全く知らない偽の社長の会社に対する冷めた距離感がマッチしているとも言える。
主人公が「右も左もわからない環境で右往左往し自分のルールに縛られ苦しんでいく」という話自体は意外にも過去の作品で語っていた内容と同じであるがそれをコメディとして撮っているだけであって。
チャップリンの「クローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇」という格言があるが
トリアーはテーマ性を変えずにこれをしたかったのではないだろうか?
その手段として自分の意識から手を離しカメラの決定権から距離を置くことで真の喜劇を求めた。
トリアーはナレーションで「このコメディが理解できなかった人へは謝罪する。しかし理解できる人はさすがだ」と挑発的な態度も忘れていなかったが過去の作品でもよくよく考えれば喜劇と捉えられるシーンも多くこの後鑑賞することとなる「キングダム」においてはコメディ全開のこともあり実は本質はそこにあるのかもしれない。
この後トリアーは鬱症状が進行していくわけだがこの間の休息のような作品が自分自身へのダメージを自覚していた故の作品なのかもしれない。