天下の超かぼちゃ王大将軍

怪物はささやくの天下の超かぼちゃ王大将軍のレビュー・感想・評価

怪物はささやく(2016年製作の映画)
4.3
「"現実"は、向き合うには無限(デカ)過ぎる」

難病の母親と二人暮らすコナーは、毎晩夢にうなされていた。
崖の淵。堕ちゆく母を繋ぐ唯一の手。
むなしく、母の手は滑り落ち・・・。
悪夢に代わって現実も、あまり芳しくない。
母親の容体は悪化の一途。
気の合わない祖母は母親に入院を勧め、
コナーは祖母の元へ来いと言う。
学校では虐めに合い、別離した父親は、
気にかけてくれるものの、自身の新しい家族の場を大切にする。
コナーの逃げ道は、母から受け継いだ絵の才能、妄想への没入。
しかしその妄想は、やがてコナーの現実を侵食する。
窓の向こうにある墓地。たたずむ大樹は銀杏の木。
深夜その大樹が動き出し、巨大な怪物へと姿を変える。
怪物はささやく。
「一日の一つずつ、3つの物語を語ろう。4日目、お前が4つ目の物語を話せ」と。
意味が分からず混乱するコナーであったが、
怪物も、そして現実も待ってはくれず、刻は不条理に進んでいく・・・。

■「ザ・"J・A・バヨナ"」

前々から見よう見ようと思いつつ、最近、
動画コンテンツに対して離れ気味な心情もあって、見るの忘れてた。

思い出して見たわけ。

見たいと思った理由は、言わずもがなの"J・A・バヨナ"作品だから。

え?知らない?

いやぁ~、観た方が良いよ。

特に「永遠のこどもたち」は、ホラーなんやけど、
多分ホラー苦手な人たちも含めて、新感覚だと思うよ。

個人的には鉄板監督と言ってるけど、
元々は面倒な感じも内在してる監督で、独自性は強い。

次回作がジュラシックワールドの続編って事で注目されるやろけど、
根源にある「永遠のこどもたち」の人間臭さはエンタメでも映えると思う。

本作は、どっちかって言えば、その拗らせてる部分が強いニュアンス。

もっと拗らせてもいいとは思うけど、
ま、原作がある話だし、J・A・バヨナのらしさは十分に出てる作品。

なんのこっちゃ分からんとは思うけど、
せやね、スッとハッピーエンドではない感じ?

って言うと、バットエンド?ってなるけどそういう短絡的でもなく、
ん~、「現実は手に余るけど、けど、そのなかでも自分なりの折り合いつけて生きていくしかないんちゃう?自分なりに落としどころがあれば、それはハッピーエンドなんちゃう?」

って感じの映画。

それが、J・A・バヨナ。

■「現実も真実も結局は妄想」

映画の中身については、まぁ観ればイイさと言うか、
細かく話すより、考えながら、感じながら見たら良い映画。

ダークファンタジーと言えばそうやけど、
少年が現実に向き合う映画って事かな。

難しいけど。語るの。

まぁそれしか言えん。

けど、泣いた。

泣きつつ、ツボからは若干離れている。

そのギャップが点数若干のマイナスやけど、
それは、完成された物語への欲求があるからだとも思う。

ハッピーエンド、バットエンド。

誰かが、何かの教訓なり、希望なり、
「結論ありきの終焉」を望むから、
何かモヤモヤが残るこの物語には、素直さを示せんのだろう。

マイナスにしたけど、実際マイナスじゃない。

自分が弱いから、点数引いただけだろう。

そういう意味では、コナーよりも自分は弱いねやろう。

ここからは、毎度の映画感想というよりは思考の発散に近い事。

映画の基本的な話はここまで。

さて、本筋をぼやかしつつ、考えた事を発散する。

"現実"や"真実"に向き合うという言葉があるけれど、
それは、例えばそれこそが正道というような、絶対的な価値観なのだろうか。

いや、向き合う事は必要でも、そもそも"現実"や"真実"というのは、
揺るぎない絶対的な概念なのか。

確かに、起きた事象は不変だと思う。

ただ、それを"現実"や"真実"という概念として定義するには、"観測者"が必ず必要になる。

"観測者"がいなければ、それはただ連綿と流れ続ける揺らぎでしかない。

"観測者"がそれらを切り分けて、カテゴライズして分割して、これが真実だ、現実だと認定する。

"観測者"の立ち位置で。

"観測者"は誰か。それは私であり、あなた。

この世界で、唯一世界を観測している事実が確定しているのは、自分だけだから。

私の世界では私が唯一の"観測者"。あなたの世界ではあなたが唯一の"観測者"。

けど、世界は、"観測者"である自分たちのキャパを超えて広い。

目で見える範囲は僅か。
耳で聞こえる音は周りだけ。
味も臭いも触覚も、触れないと感じられない。

ネットやTV、紙を介して流される映像、文章。

情報ではある。が、結局は又聞きなので、
その先は想像で補うしかない。

いや、目で見て、肌で感じた事すらも、結局は想像に転換して自分勝手に認識して、
解釈して、その先を妄想して、自分勝手に納得することで、"現実"や"真実"という言葉で勝手に定義していく。

足下に自ら薄氷を張って、思い込んで、それが揺るぎない厚い氷だと、
勝手に自信を持って世界を分かった気になって自分を納得させるのが、まぁ"観測者"なのかもしれん。

ま、納得しないと生きていけないから。

ただ、観測するには世界はデカ過ぎる。

まして制御するには、無理難題過ぎる。

そのギャップは、厚いと思った氷が、実は薄氷だと気付かされる。
むしろ、薄氷ですら無いと気付かされるわけだけど、
けど、それはゼロへのリセットみたいなもんでさ、結果的に生きる気力にも直結する。
アイデンティティの崩壊とも言えるんかもしれんけど。

なんのこっちゃって話やけどさ、
コナーはコナーなりに、観測者として世界を見て、激しいギャップを妄想で埋めて、現実、真実と認識して、日々をしのいでいたんだろうと思う。

今の私やあなた、未来含めてずっとコナーと同じではある。

自分の世界を観測してる実感を持てるのが自分しかいない限りね、
そこはどう落としどころを見つけても同じだろうと思う。

もうちょっと、映画の話に近づけよう。

コナーの観測の歪みのなかで、本作のテーマが一つある。

それは、自分へのウソ。

自分はこうありたい、自分を取り巻く環境がこうあって欲しい、これこそが真実であって欲しい。

本来の自分とのギャップ。そこを妄想で埋める。

誰もが観点は違っていても絶対にやってる事。

それは"観測者"の性というか、制限というか。能力の限界?

本作の点を割り引いたのは、そこを「向き合う事こそが正解だ」としている点。

いや、それは一つの正解。

ただ、現実に向き合うという事は、言い換えれば認識を見直す。
真実であったと思った事を否定し、新たな真実に上書きする。

これを別の言葉で言うと、信じてた事を「諦める」という事。

諦める事で、前に進むこともある。

けど、諦めない事で、乗り越える事もある。

どっちが正解かなんてなくて、どういう結果が生まれて、"観測者"がどう受け止めるか、でしかない。

言ってしまえばコナーが良ければそれでいいって話やし、
ある程度流れ的に納得はしてるけど、
それが、絶対的な道徳ですよ、って感じになると、とは言えというモヤモヤが残った。

泣いたけど、故の減点。

ただ、この文章も別に何も正しく無くて、だから何って話で、
何の意味も無い。

生命は結局、生まれてしまったからには死ぬしかない悲運の存在なわけであって、
死ぬと分かっているまでの間を、折り合いつけながら時間を潰していくしかない。

この文章書いたって、何の折り合いもつくわけじゃなくてさ、
結局、悶々としながら、グダグダと生きて、いつか死ぬんだろうと思いつつ、
それが怖くて仕方がなくて、けどどうしようもなくて、自分に言い訳しながら死に向かっていくしかない。

本作は、その自分なりの折り合いの付け方の一つの形。

だから、なんかモヤモヤが残る。

今日は簡単でも、明日は今日の決断を簡単に受け止められないし、それは多分、死ぬ直前まで続くんだろうと思う。

煉獄とはよくいったもんやね。

煉獄の炎に焼かれ続ける葛藤と言った所か。

いつか死ぬリミットはこれ書いてる間にも縮まっている。

自分は、だけじゃなくて、周りの変化もも含めて。

結局は、幸せだと思えた奴が幸せなんやろなって話かな。

分からんけど。