エクストリームマン

ワンダーウーマンのエクストリームマンのレビュー・感想・評価

ワンダーウーマン(2017年製作の映画)
4.0
I can save today. You can save the world.

『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』で唯一のみどころだったガル・ガドットのワンダーウーマン、その初単独映画。

律儀に第一次世界大戦を舞台にし、かつ初めて会う「外の世界の男」がスティーブ・トレバーになっているあたり、かなり原作に忠実?だった。

万能無敵に思えるMCUが今のところ避けて通っているのが、まさに本作が描くような、泥臭くて救いのない悲惨さであって、そこにワンダーウーマンを放り込む勇気はなかなかのものだと思う。短い時間で傷痍軍人、塹壕戦、故郷を追われた人々を結構なインパクトで描いていて、寧ろ“普通の”戦争映画よりも落差があって真に迫る瞬間もあった。ワンダーウーマンの場合、単に間に合わなかったとか救えなかったのではなくて、そうする力があったのにむざむざ見殺しにしてしまったという後悔に常に襲われるわけで、一介の兵士が戦場で直面するのとは文字通り次元の違う痛みや哀しみが発露する瞬間が興味深い。

上記のような諸々は、MCUが巧に避けてきた部分であるように思う。確かにNYには異次元人が襲来し(『アベンジャーズ』)、第二次世界大戦でもハイドラに操られたナチスはヨーロッパ大陸を蹂躙した(『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』)し、ウルトロンが暴れまわったソコヴィアは多くの犠牲者を出し(『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』)、結果としてヒーロー同士の内戦=シビルウォーが勃発(『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』)した。しかし、そのどれもが極少数の、目に見えるて対峙できる「原因」に集約されるように作られている。抽象化・寓話化することで、スーパーヒーローを世界の側へ馴染ませるのと同時に、世界の側にただ横たわる断絶や痛み、哀しみや悲惨から目を逸らさせる。それは、エンターテイメントとして、スーパーヒーロー映画としてどこまでも正しい選択なのだけど、どうしてもそこから零れ落ちてしまうものもあるわけで。

そういう意味で、昨今のDC映画は(恐らく半分は意図せずに)MCUが捨象したものの幾つかを拾っていて、エンタメ路線ながら、たとえば『スーサイド・スクワッド』のアマンダ・ウォラーのようなキャラクターを内包できるのだ。今のところ、MCUのどんなに残忍とされるヴィランでさえ、彼女の所業、その選択の冷酷さに及ぶべくもない。それは、キャラクターの造形や原作云々の問題ではなく、構造としてどこまでを許容できるのかという一貫性の問題であるように思う。

伝統的に、DCは神話的でMARVELは日常に寄り添っている=リアル寄りだと言われるが、映画化された結果、それが逆転しているところが面白い。クリストファー・ノーランというエピカルに語ることに狂った人間が作っていた頃=クリスチャン・ベールのバットマン三部作はまさしく神話的な語り、構造、舞台設定をしていたものの、彼の手を離れた近作は、寧ろMCUよりも遥かに“リアル”へ寄っているように思う。それが、キャラクター造形の単位であれ、本作のようなかつての戦争を描くのであれ、である。

まぁ、MCUに(権利関係で)組み込まれていないX-MEN映画の幾つか(『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』『LOGAN/ローガン』)や『デッドプール』を見渡せば、MCUが捨てたものをこそ積極的に拾っていく姿勢でMCUとは違った面白さを明確に打ち出せているので、これらすら“ユニバース”に組み込める日が来るなら、MCUはいよいよ誰も対抗できなくなるような気もする。