Sayawasa

ハッピーアワーのSayawasaのネタバレレビュー・内容・結末

ハッピーアワー(2015年製作の映画)
3.4

このレビューはネタバレを含みます

「良かった」って言葉で終わらせるのが勿体無くて、なにか違う気がして、でも観て良かったなと思えた作品。感想を言語化しきりたくない、もう少しふつふつさせたいって思える稀有な作品。

「女性の友情」を一つの要素として押し出した作品の中では過去ベストかもしれない。
四人の女性全員に、どこかしら共感するところがあった。キャラクターがキャラクターじゃないような、もう本人たちのような自然さが心地よくて、いつのまにか5時間17分あっさり全部観てた。5時間以上もあるのに、終盤にかけていくにつれ、どんどん加速度的に面白くなっていったのがすごい。

あかりの言葉にすることだけが真実で、いつだって明らかにすることこそが正義と思っているおめでたいところ。だけど誰よりも明るくて前向きでエネルギーがあるところは素敵。
桜子の自分への劣等感から言葉を控えてしまう癖。純粋がゆえに何かと見落としがちだけど誰よりも本当はきちんと彼女なりに世界と向き合おうとしているところは愛しい。世界を一度壊そうとする向こうみずで我儘なところは人間らしい。
純の誰にも秘密を告げることなく、一人で動こうとする頑固さと自分をひたと見つめる冷静さ。人と人、人と自分を不快感なく、でもしっかりと繋いでいくコミュ力は「大人のコミュ力」といった感じで魅力的。
芙美のあえて言葉にしない佇まい。美しさすらあった。客観性と多様性を重視するあまり、自分が後ろ回しになって、いつの間にか取り返しのつかないところに自分を追いやってしまう愚かさは人に対する優しさか無関心、どちらに起因するんだろう。


自分の心や感情をありのままに伝えることの難しさを表現した映画らしいけど、それを表現するのにこの5時間は確かに必要だった。
伝わらない、わかってもらえはしないと自身の方から諦めること。自分の価値観の外で動くものを断固として認められないこと。自分には言葉にする能力がないと後ろめたさで手をこまねいてしまうこと。
ありのままに、ありのままの自分を伝えられない要因は自分の内にも、外にもたくさんあって、それらを誰でもない自分が一つずつ、「自分で」わかっていくことの難しさと大事さがこの作品の伝えたかったことのような気がしている。

一方、性行為に意味を委ねすぎて「うん、もうええで」ってなる。直接的じゃないけど、それが代替するとされる威力の大きさ尋常じゃないよね?いままで見てきた作品もれなくそうなんだけど監督の趣味なの?性行為にそこまで執着する必要ないのでは、魔法じゃあるまいし。


PVでも使われている、シェルターに向かう純とそのバックの神戸の街と山が、船上の雰囲気も相まってとても良い。もっともっと見たかった。
鵜飼があかりの肩を突き飛ばして「欲しいものがあるなら自分で掴めよ」って発破かけるシーン、最高にクールで好き。あのカットの運び方とその後の展開も含めてドラマティック。
あかりがテディベアを急いで隠すシーンは下手したら一番好きだったかもしれない。
櫻子の旦那が交差点でうずくまって泣くシーンもいい。結婚指輪はあんなに哀しく綺麗に光るものなのかね。そして彼の忙しさに神戸市役所で働く友人を少し思った。


自身が育った街の風景が美しかった。摩耶ケーブルで登る掬星台。いつも買い物のときに通る旧そごうへの歩道橋や横断歩道。運動着で何度も走った公園や川沿い。神戸市バスのアナウンス。新神戸から三ノ宮に向かう途中のやけに長く感じるトンネル。元町駅に向かう途中の古びたネオン。
三ノ宮周辺の風景がなんだかいつもと違って見えて、だけどよく観てるといつも通りで少し可笑しかった。
(中崎町のカフェ兼クラブも、あとからあ!ってなってびっくりした)


観終わってからずっと、貼らないカイロを手持ち無沙汰に、持ち手を変えながら握りしめているような感覚。重みとあたたかさをもう少し手で弄んでたいときの感じと似ている。
観た直後のインパクト重視で映画を評価しがちだけど、観てから何時間も何日も経ったのちに「あの映画良かったな」ってなる映画って、いい映画だと思ってる。

「ほんまに、自分の人生の切れ端を掴んだ感覚」
「自分のせいにするって、それ傲慢ちゃうん?」