ナガエ

シン・エヴァンゲリオン劇場版のナガエのレビュー・感想・評価

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自分でも戸惑うぐらいの感情なのだけど、映画を観終わって僕は、喪失感に襲われた。たぶんそれは、「エヴァンゲリヲン、終わってしまうのか」というものなんだと思う。

僕は、あまり物事に執着しないタイプだと思う。より正確に言えば、執着しないようにしている。だから、喪失感を抱く機会は多くない。これまでの人生を振り返ってみても、好きな人と離れる時とか、好きな土地を離れる時のような、自分にとってかなり大きなイベントが起こった時に感じるぐらいだ。だから、映画を観終わってもの凄く大きな喪失感を意識させられて、非常に不思議な気持ちになった。

「おはようって、何?」と無邪気に聞く、綾波みたいだ。

僕は、シリーズが続いていくものが得意じゃない。だからマンガもあまり読まないし、アニメはほぼ観ない。小説もシリーズ物にはよほどのことがない限り手を出さないし、ゲームもやらない。だからこの喪失感が、「シリーズが終わってしまった時、常に感じるもの」であるのか、あるいは、「エヴァンゲリヲンだからこそ感じられたもの」なのか、僕には判断できない。けど、主観的には、後者だと思う。

エヴァンゲリヲンというのは、とてもとても孤独な物語だと思う。一般的に、人の前に立ったり、人前に出たりする人間は、それがどんな役割であっても孤独に近づいていくものだと思うのだけど、エヴァンゲリヲンというのは、さらに孤独の深度が深いと思う。

そう感じる一番の理由は、エヴァンゲリヲンという物語が、「人類補完計画」という謎めいたプロジェクトの完遂を背景にしていることがあるだろう。

エヴァンゲリヲンという作品を観ているだけでは、僕には人類補完計画の詳細は全然理解できなくて、考察サイトや動画を散々見てようやく理解した。「ATフィールド」というものを当初、バトルアニメのバリア程度にしか思っていなかったのだけど、人類補完計画を理解すると、ATフィールドという存在が、人間がどう存在するか、孤独とどう向き合うかと関わるものだと分かってくるようになる。

エヴァンゲリヲンに乗る者たちは、様々な意味で繋がりを断たれている。ある者は出生の背景に断絶がある。ある者は周囲の人間関係に断絶がある。ある者は親との関係に断絶がある。そして彼らは、「人類」という種から、否応なしに断絶させられる。

エヴァンゲリヲンに乗らない者たちも、様々な断絶を経験する。一番の断絶は、「インパクト」と呼ばれる謎の現象だ。これが起こると、地球に甚大な被害がもたらされ、そのせいで人類の多くが死亡する。この「インパクト」によって、大事な人との関係性を断絶させられた者が多くいる。

また、ネルフやヴィレなど、物語を主として起動させていく組織に属する者たちは、目的のために自らの命を辞さない覚悟を持っている。大義を果たせなくなると判断された場合、彼らの属する施設が消滅するという安全装置の存在を受け入れた上で、彼らは働いている。劇場版のQやシン・エヴァンゲリオンでは、もはや普通の生活というものは存在しないが、序や破の時点ではまだ、ありきたりの普通の生活を選択する余地もある。しかし彼らは、そういう普通の生活と断絶して、大義のために自らの命を差し出している。

エヴァンゲリヲンというのは、様々な意味での「断絶」が織り込まれ、その中で必然的にやってくる「孤独」とどう関わっていくのかという物語でもある。

僕も、人生の中で「孤独」問題とはずっと仲良しだったと思う。子供の頃から、人間って難しいな、なんでみんなが今笑ってるのか分からないな、今どういう風に振る舞うのが正解なんだろうな、みたいなことを、ずっと考えてきた。今でこそ、そういう振る舞いが僕自身の自然なものとして定着をして、「孤独」を強く意識させられる機会は減った。それは、穏やかに生きていくという意味では、とても良い状態だ。今でも、人間に対する難しさを感じることは多い。でもそれは、対処可能な問題に分解されて、必要な手順が蓄積されて、”正しい”出力を行うことで困難では無くなっていった。

でも、だからと言って、僕の内側の奥底から「孤独」が消えているわけではない。人間に対する分かり合えなさみたいなものはずっと感じているし、「分かり合えたらいいんだけどな」という微かな希望はいつまでも棄てられない。時々話が通じると感じられる人に出会えると細胞が喜ぶ感じがするし、そういう瞬間が時々やってくることで、なんとか生き延びてるような気がしている。

エヴァンゲリヲンは、僕が普段意識することがなくなった「孤独」に対する感覚をやすやすと引き出すし、「世界との分かり合えなさ」みたいなものをまざまざと見せつけてくる。

だから好きなんだと思うし、ちょっと怖いなとも思うし、強烈な喪失感を抱かされたのだと思う。

「孤独」に対する感覚も、人それぞれだ。ある人物は、「孤独」の意味を理解できない。ある人物は、「孤独」を当たり前だと思おうとする。ある人物は、「孤独」を罰だと感じている。また、「人類補完計画」は、圧倒的な「孤独」から生み出された狂気の産物である。

そう考えた時、「シン・エヴァンゲリオン」が公開されたタイミングにも思いを馳せてしまう。僕らは今、目に見えない謎の脅威によって、人と人との関わりを大幅に制限されている世の中を生きている真っ最中だ。これほどまでに全世界的に「孤独」が強く意識されているタイミングも無いと思う。「人類補完計画」という狂気を内包するエヴァンゲリヲンという物語は、孤独とどう向き合うかの物語だ。それを、全人類が否応なしに「孤独」を感じさせられているまさにそのタイミングで観るという状況は、エヴァンゲリヲンという物語がまとう想定外の毛布のようなものではないかと思う。

そこまで考えて、映画を観終えた僕が感じた喪失感の中には、映画館での無意識の「一体感」のようなものから離脱しなければならない感覚、みたいなものも含まれていたかもしれない、とも感じるようになった。

普段の生活であれば、「目の前にいるあの人はきっと孤独だろう」と感じることは、そうそうない。しかし僕らは今、無意識の内に、「目の前にいるあの人”も”きっと孤独だろう」と感じる世の中を生きている。そして、エヴァンゲリヲンを観るために集まった人たちで埋め尽くされた映画館というのは、「自分だけではなく、ここにいる全員がそれぞれ孤独であると、その場にいる全員が感じているだろう空間」だ。そしてその空間で、「孤独とは何か」を強烈に意識させられる物語を共に観る。エヴァンゲリヲンは長く続くシリーズでもあるから、公開から日をおかずに見ている面々は、「長い間この物語を待ちわびた同志」みたいなところもあって、無意識の内に連帯していく。そして物語が終わるのと共に、否応なしに孤独な者たちが否応なしに連帯している場から、去らなければならなくなる。

その孤独感みたいなものも、僕が感じた喪失感にプラスされていたかもしれない、とも思うのだ。

理由はともあれ、泣きたくなるような喪失感に襲われて、なんだか凄く不思議な気分になった。相変わらず、物語そのものは全然理解できないのに、こんな不可思議な気持ちにさせるエヴァンゲリヲンのことが、きっと僕は好きなんだろうなと思った。

無理だけど、ざっくり内容にも触れようと思います。
ニアサードインパクトの後パイロットたちは、なんとか生き延びた人たちが住む村へと辿り着く。そこで懐かしい人と再会する碇シンジだったが、彼は完全に心を閉ざし、誰とも関わろうとしない。一方綾波レイは、その村で農作業などの仕事をし、赤ちゃんをあやし、他人と触れ合っていく。式波・アスカ・ラングレーは、心を完全に閉ざす碇シンジに苛立ちを滲ませつつも見守り、ゲームをしながら帰還の時を待っている。
そして、ヴィレへの帰還が果たされた後、最後の闘いが始まる。

どうせ物語は全然理解できてないから、内容について触れるのはこれぐらいにしよう。

前半と後半で、「同じ物語なのか?」と思うくらいテイストが違う。前半は、ほのぼのとした村の暮らしだ。懐かしい面々もたくさん出てくるし、綾波レイが新しい言葉や感覚を理解しようとしている感じは可愛いし、全体的にとてもほのぼのとしている。「シン・エヴァンゲリオン」に限らず、エヴァンゲリヲンの物語は全体的についていけないから、こういうほのぼのとした、誰にでも理解できる部分がちゃんとあってくれると助かる。

これは僕が他のアニメを全然観ないから、何かと比較してのものではないのだけど、エヴァンゲリヲンの物語というのはとにかく、「精緻な設定が用意されているのだろうけどきちんと説明されない部分」が非常に多い。村での生活も、その詳細が描かれたり語られたりすることはないからはっきりとは分からないのだけど、随所に、きちんとここに至るまでの歴史みたいなものが設定として用意されているんだろうなぁ、と思わされるような描写があったと思う。KREDITという補給部隊の存在や封印柱の役割など、ニアサードインパクト後に人類が生き延びる上で必要な設定がきちんとなされているんだろうなぁと感じさせられる。

それはエヴァンゲリヲン全体に対しても感じることで、特に人類補完計画絡みの単語はさっぱり意味不明なのだけど、精緻な設定がある予感を抱かせる。エヴァンゲリヲンでは、碇シンジという存在が、「何も知らないが故に、世界の設定を観客に伝える役割」を当初は果たしているのだけど、碇シンジが「何を言ってるのか分からないよ」という場面は多いし(結局詳しく説明はされない)、さらに最終的には、何故か碇シンジは誰よりも自分の成すべきことが理解できている(理解してるから観客に説明してくれない)ため、なんのこっちゃさっぱりわからない、ということになる。

でも、観る側には(少なくとも僕には)、「この作品には精緻な設定があり、それを解き明かす鍵はオープンにされており、努力すればきっと理解できる」というような感覚があるんじゃないか、と感じる。分からないけど。でも、そう考えなければ、こんなに”意味不明”(別に貶しているわけではない)な物語を、これほど多くの人が待ちわび、考察し、議論し、繰り返し観ようとしてしまう理由に、説明がつかないように思う。

また、今回の「シン・エヴァンゲリオン」では、「ちゃんと説明しようという意思」みたいなものも感じられた(変な表現だけど)。

僕は、テレビ版とか旧劇場版とかをリアルタイムで熱心に追いかけてたわけではない。テレビ版は飛び飛びにしか観た記憶がないし(僕の記憶では、中学校から急いで帰ればギリギリ間に合う、みたいな時間に放送されてたから、観てない回も多いはず)、議論が多かったらしい旧劇場版(TVシリーズの25話、26話に相当するもの、だっけ?)も、公開当時はたぶん観てない。後から情報を知るに、どうも旧劇場版は毀誉褒貶の多い、議論の耐えないものだったようだ。まあ、気持ちは分かる。意味不明だもんな(笑)

ただ、今回の「シン・エヴァンゲリオン」は、同じく意味不明ながらも、「ちゃんと色んな情報を提示してくれている感」はある。特に、碇ゲンドウが語り始めて以降は、その感覚がより強くなった。もちろん、僕には全然整理がついてないけど、それまでのエヴァンゲリヲンが「受け取るべき情報がなにかも分からないから整理のしようもない」だとすれば、今回の「シン・エヴァンゲリオン」は、「受け取ることが可能な断片的な情報は大量にあるけど、整理できない」だと思う。そういう意味で、今までよりとても”親切”な感じがする。

例えば、僕には現時点で答えは分からないけど、「マリは何者なのか?」というヒントがあったなと感じられたし、同じように、ある人物が「渚◯◯」と呼んでいる場面から、「渚カヲルとは何者なのか?」というヒントがあったなと感じられた。答えは分からないなりに、散りばめられた情報は単体で受け取ることが出来たと思うし、「何が謎であるのか?」という問いを今まで以上に立てやすい物語だと思う。そういう意味で”親切”だと感じられた。

碇ゲンドウという人物にはまったく共感できないけど、碇ゲンドウの独白の場面は、ちょっと心が動かされた。僕は監督の庵野秀明氏のことはよく知らないのだけど、勝手なイメージとして、碇ゲンドウのような孤独感を抱いている人物だと思っている。エヴァンゲリヲンという物語は、そのすべてが碇ゲンドウという男の歪んだエゴみたいなものが中核にある。そして、碇ゲンドウのような圧倒的な孤独感を、人類補完計画という狂気としてではなく、エヴァンゲリヲンという至高の作品として提示したのが庵野秀明なのかな、という受け取り方をしてしまう。

映画は、物語の基本構造としてよく登場する「父殺し」をまさに地で行くような展開になる。ある意味で、「壮大な親子喧嘩」だ。「孤独」に対して首尾一貫して揺るぎない対峙の仕方をした父親と、「孤独」に対して壮大な紆余曲折を経た息子が、「人類の存在/孤独」をかけて争うのだ。なんというか、凄いんだか凄くないんだか分からない展開だけど、「親子喧嘩」をここまで壮大な物語に昇華できるというのは、やっぱり常軌を逸していると感じる。

あと、映画を観終えた後の喪失感も不思議だったけど、映画を観てて途中で泣いたのも意外だった。泣いてしまったのは物語の後半、もう誰が何をしているんだかほぼ理解できないようなカオス的な状況でのこと。確かにその場面は、人間の切実な感情が複数交錯し、爆発するという感情的な場面なのだけど、物語の展開を理解できていない自分が何故泣いているのか、自分でも説明できないな、と思った。

昔、何かで読んだことがある。欧米ではピクサーのように、大勢のクリエイターが様々に意見を出し合って脚本を練り上げ、アニメを制作していく。そのプロセスは非常に洗練されていて、もはや闘えるレベルにはない。しかし、欧米のやり方に唯一勝てるのが、一人の天才が物語を生み出すというやり方だ。その記述は、宮崎駿を想定して書かれたものだったけど、庵野秀明が生み出す作品もまた、同じだろう。エヴァンゲリヲンは、多数の人間が共同で作り上げられるものじゃない。もちろんエヴァンゲリヲンにしたって、庵野秀明以外のアイデアも多数含まれているだろうが、コアとなる部分は、庵野秀明という個人が構築しているはずだ。また別の何かで、「庵野秀明が作ればエヴァンゲリヲンになる」という記述も読んだ記憶がある。確かにそうだろう。誰か別の人間が、どれだけエヴァンゲリヲンっぽい作品を作っても、それはエヴァンゲリヲンではない。そして庵野秀明が、どれだけエヴァンゲリヲンっぽくない物語を作ろうが、庵野秀明が「これはエヴァンゲリヲンだ」といえば、それはエヴァンゲリヲンなのである。

そういう、”圧倒的な個人”にしか生み出せないような壮絶さみたいなものを感じさせてもらったし、だからこそ、喪失感を大きく感じもしたのだろう。エヴァンゲリヲンという作品が、日本のアニメ史や、日本のサブカルチャー史においてどういう位置づけとなるのかみたいな話は僕は門外漢だから分からないが、エヴァンゲリヲンという文化が生み出した土壌の豊穣さみたいなものは、碇シンジが感じた土の匂いのように、意識的にも無意識的にも、多くの人を刺激し、さらに新たな土壌となったことだろう。

ここまで書き終えた今もまだ、この謎めいた喪失感とちょっと闘っている。そしてちょっとだけ、「僕もちゃんと人間なんだなぁ」という感覚を味わっている。
ナガエ

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