YasujiOshiba

ゾンビーワールドへようこそのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

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アメリカの青春映画の基本。チャラチャラして、学校の人気者になって、彼女を作って、パーティなんかでキラキラと輝くことこそ。それが人生の最大の目的なんだみたいな感覚からスタート。ところが、あれほど輝いて見えたものが、じつのところ、大して意味のないことだったことを暴いてゆく。そのために、社会の現実それも暗い部分を見せる。それは、ちょっとした犯罪だったり、死体探しの旅だったり、あるいはチェーンソーを振り回す怪人だったり、鉄の爪の殺人鬼だったりするわけだ。

そして、そこにはいつも学校がある。この映画がおもしろいのは、いつもの学校に、ボーイスカウトを登場させたこと。なにしろ原題は「ゾンビ黙示録へのスカウト・ガイド」。物語の焦点は、学校のなかで浮いているボーイスカウトの3人組なのだ。

そのボーイスカウトなのだけど、これにはどこか古めかしいところがありながらも、よくみると教育システムとして一本筋が通っている。きっとそれは、その中心にぼくらの近代的社会が前提とするアソシエーショニズムがあるからだろう。だから例えばウェス・アンダーソンの『ムーンライズ・キングダム』なんて、スカウト運動をまるで社会のいかがわしさを体現するももとして描いたいてよね。そしてスカウト=社会からの逃走。しかも、そこで学んだ手段を用いて、スカウト=社会の外へと向かいながら、じつのところ子供から大人へと向かって逃走しているだけだったという展開が、実に秀逸だった。

では、この映画の場合はどうか。ボーイスカウトの3人組は、学校ではすっかり変人扱い。妙な半ズボンなんてからかいの対象。制服というのが実は、肌の色が違っても、スカウトであるからには平等だという友愛の証なのだけれど、そんなのはただダサいだけなのだ。でもね、逆を言えば、制服がなくなったとき、学校は理念を形式的に保証するものを失ったんじゃなかったのかね。私服で登校するとき、子どもたちは消費社会の消費者として、持つものと持たざるもの(あるいはモテるものとモテざるもの)の格差社会を生きることになってしまったんじゃなかったのかな。


それから政府の胸につけているバッジ。これも妙な飾りとして笑われる対象なのだけれど、スカウトのバッジシステムというのは、実はわらいごとじゃない。ひとつのバッジにはひとつのスキルが対応し、それぞれがひとつの力能の指標なのだ。けれども、個々人が独自に伸ばすようなスキルは、今の学校には必要ない。誰からも好かれる人気者であること。男も女も、ただモテること。それが善なのであって、スキルなんてのにこだわってるのは、キモイだけなのだ。

そして、ゾンビの黙示録がやってくる。誰もがゾンビ化してゆくなかで、スカウトの3人組が、自分たちのスキルが以外と役に立つことを学んでゆく。そう、スカウトは実践が大切なのだ。隊長=指導者がきちんと教えていれば、生徒=団員たちは、時がくればひとりで学びを起動させるもの。だから、隊長=指導者はそうそうに退場するものの、亡霊のように(というかゾンビとして)、時々姿を見せるだけでよい。

やがて3人は、バッジのスキルを全面展開して、完全武装してさっそうと登場するのだけど、そこには、アメリカの青春映画のパタンが反復されることになる。そう、ほんとうの意味で、夢にまで見たヒーローになること。そして、モテること。

それはアメリカ青春映画が、手を替え品を替えしながら、脅迫的に反復してきたことでもある。けれども同時に、ゾンビを召喚してスカウト運動を称揚するところが新しいのだと思う。ただ、その新しさの意味は、明るいものなのか不気味なものなのか、まだはっきりとわからないままなのだ。
YasujiOshiba

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