ニューランド

ホース・マネーのニューランドのレビュー・感想・評価

ホース・マネー(2014年製作の映画)
4.1
名画座にも降りず、FAの上映も2回しかなく合わず、ずっと気にしてたがやっと。それほど、ヴェントーラ·シリーズは長編·短編に係わらず、傑作揃いだった、ということだ。見る前に期待出来るような映画は、特に新作についてはなくなった年齢に入ってきたが、ポルトガル映画については、1993年に『アブラハム渓谷』ド·オリヴェイラを観て、秋に前後して観た『エイジ·オブ·イノセンス』と、個人的年間ベストを競わせて以来、発見·出現の新旧鬼才が後から後から出てきて、留まらないと特別視(最大の作家は、『J.W.の腰つき』から観て、遺作まで殆ど全てが大傑作と云いたいモンテイロか)。コスタが、現役では、ゴメスを押さえその筆頭か。
本作は繋がり的にも、前後2作と深く関わっているのだが、やや短尺のせいもあるが、それらのどこか持っていたモッサリし拭いきれない·滲み出る·また浮遊を呼び込む重さが、勿論残ってるとはいえ、かなり鋭く明晰な観念的論理的、閉塞と切開の方にウエートが移行してて、バランス·リズムからは消化しやすいものになっている。他の例えばノーラン辺りがヤキモキしてたいして成功していない、意識と時空の変移の探求についての、完璧という言葉の本当の意味に近づいてる作品でもある。時代と場が、’70年代半ばから’80年代物初めの革命軍や自身の結婚·出稼ぎスタートとの30数年差、宗主国首都の貧民街と·故郷であり家族を残した移民元国、を隔てて行き来し、現在の死者が生者として印象的·象徴的に動き回るばかりか、現在の50代が、10代終りの者として、あたかも故国で収監された亡霊如く·そのまま生きながらえたような·それからの現在に至る未来の感覚を失った·もうひとつの人生の感覚·感触を持ったりしている。何か、透徹した歴史もののようでもあり、スマートなSFもののようでもある。このシリーズ?のカーボヴェルデからリスボン·フォンタイーニャス地区への移民の初老の主人公(苦と傷と痛と惨の抑圧の歴史で瀕死の現況)、そこで同じような道を歩んできた同郷人(ら)、その1人の死の通知で遙々訪ね来たその妻(次作の主人公)。そして、宗主国絡みか、革命軍の落ち着かぬ存在のあり方。この4者が、加害行為、収監影響力で、変に交錯し、それぞれの立場を、幻と悔恨、羨望のものに、和らげ弱めて行く。その他、このシリーズの主人公の、医師や甥や故郷に置いてきた妻らも彩る。只、不勉強でポルトガル現代史は、オリヴェイラの日本で最初に有料上映された『ノン、あるいは支配の虚しい栄光』で教えられた以上の事は、調べてもいない。
パンや移動はごくごく限られ、細かめ鋭めモンタージュも今は死者の夫の生前のアクティブな行動の場面の2ヶ所位に限られ、揺らぐ光と影や衣類の色彩も強烈だが、多くはサイズや角度が時に変わっても、フィックス広角めで、天井·床や、塀·壁·細い階段や通路、多くは暗めに奥に延び部分光が自然に息遣い·生気のギラツキを捉え続け、若干クリアで広い空間も天井や壁の採光窓は仕切られてるイメージが強い。造形·陰影·質感·シャープさ·グラデーションの深く本質的な力は、いつもの事ながらデジタルの範疇を超え、いやアナログのベストをも、といったところ。アップや切返しめ、トゥショットはあるが、角度の浅めズレ·異種構図·背景の光感等で正対や切結び深化を避けてる様だ。時に広角系のせいもあり若干傾く。そして、意識·記憶な戻り·翔びはイメージ再現より、必ず戻る表情と延々語りを通して間接的に行われ、逆に観てる側の想像力を自由に拡げられる。終盤の半銅像みたいな革命軍の兵士とのやり取りは、基本エスカレータの一場内の延々交互対応で行われ、言葉も主人公の側がリードし、それが逆に自由に繋がる表現となってる。倒す相手に狂いはなかったか等、それまで両手の止まらぬ震え後遺症等主人公とその近い人間に限られてた心身の異変は、動作やカット組立、そして音響の高まりで彼の方へ移るが、突き詰めはされず、主人公と離れた声だけの妻のやり取りにスッと移行する。この辺の操作は、前作·次作では感情の豊穣が招くが、本作では作家としての知性が勝り、武器·暴力(性)の存在が介在してるようだ。失われた故郷における時間と、それへの想像の歪んだ抗いの力が、ある面しっかり伝わるものを与えてくれる。
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