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ねじ式映画 私は女優?
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『ねじ式映画 私は女優?』に投稿された感想・評価

菩薩

菩薩の感想・評価

3.5
はて?

まぁさっぱりだったので適当に書きますが、カメラはその存在自体が一つの強制力を帯びており、それを向けられる被写体の自由を侵害していくのであって、この世の純然たるドキュメンタリーなどは存在しないのだ、とかそう言うことですかな?

同時に語られるのは「自由」と「民主主義」が強制された国家に於いてのデモンストレーションの意味とは?(共生では無く強制の意味での安保)との問いで、デモ活動は演劇=表現活動と結びつけられる。「自由」を冠したコミュニティ内に本当の自由はあるのか?との問いが、そこを飛び出した一人の女優が「生きている」のか「死んでいる」との問いに帰結していく。

印象的なのはデモ活動に参加しなかった女優に対しどう思うか?との問いが二日連続で投げられた際、初日は「なんとも思わない」と語っていた団員達が、二日目は「残念に思う」と変容を見せたところ、質問者=権威側の要請に回答者=民衆が屈した様にも見える。

あとは「嘘」の問題か。雑誌社の下世話な質問に対しひたすら「嘘」をつくことを強制される女優、そもそもこの作品は「ねじ式」の名を冠していながら、劇中に出てくるつげ義春の漫画は「ねじ式」では無く「紅い花(だと思ったが…?)」、彼女に対しての「初潮はいつ?」との問いかけは、こんな所で回収される事になる。

とまぁここまで本当にでっち上げで書いてきたが、この映画のラストは前年の今村昌平『人間蒸発』に呼応するかの様に終わる。あの作品がATGの始まりでもある訳だし、その一連の流れの中で語られるべき作品の様な気がする。まぁよく分からんなかったけどね(笑)
半兵衛

半兵衛の感想・評価

3.0
1968年の学園闘争が盛り上がった状況や当時の状況劇場に所属していた吉田日出子、清水紘治らの顔ぶれを見ているのは楽しいけれど、ドキュメンタリー風の作劇術で積極的にヤラセをやっていき虚構と現実の境目を破壊して刺激を得ようという監督の目標がヤラセを楽しむ俳優たちの嬉々とした演技や60年代らしい実験的なタッチが前面に出て作品に結び付かず、単にあの時代を記録している映像以上の作品にはなっていないのが残念。ラストのオチバラシも同年代の大島渚や今村昌平の作品に比べると他愛ないような印象に。

でも中身を理解せずひたすらなんちゃって革命論を熱く語る馬鹿な大学生を飄々とした態度と発言でやり込める吉田日出子は痛快で面白かったけどね。
☑️『ネジ式映画』及び『えらぶの海』▶️▶️
以前にあまり状態のないプリントで観たことがあるが、あの傑作『叛軍No.4』の岩佐の作品ということで、また続けて1日に複数本観ての締めでもあり他のに毒され流しめで、かなり癖ある変化球的に捉えそれなりに満足した覚えがあるが、きれいなプリントで見直すと、作者・次いで被写体の男性劇団員の、対象や観客の理解・協力など鼻にも描けないような、自らの孤高の内面世界の凝縮・突き詰めと一方的影響力のこちら側からの発しにだけこだわり、とりわけ売れてきて社会一般の無理解への苛立ちも消え・通じてもきてる吉田日出子の、力みや抵抗感なく、周囲の空気と溶け合おうとしている自然体(作者の尋ねる「影響」「軌跡」への執着も薄い)と、端から埋めようのないギャップが生じてるのが分かり、一体的作品からは程遠いのが分かる。しかし、お互いに相手を罵倒することはなく、同じ創作者として尊重し協力しあっている。6・15の集会の参加・不参加の意義も価値観が平行線を描きあってる。私も世代が違うので、6・15が安保闘争で敵から生命を奪われた悲劇的で記念碑的な女子大生の命日というのは何となく分かるが、これに参加経験のある知人・ひと世代上の人の気持ちまでは分からない。また、自由劇場も名前しか知らず観たいなぁと思ってただけで、ここに佐藤信はいても串田和美がいない理由すら分からない、清水絋治が参加してた時期があるのも知らなかった。
しかし、本作は圧倒的な力を持っているのは、作者の体を成そうが成すまいが、創作者として逐次描き付ける筆致への、奢り・自信の現れによる。吉田の退団直後、その半年前の公演に至る過程その他の近場・近い日時・メンバー入替えを細かく往き来、全て原則てして一場ワンカット。成功・反応二の次でこの構成で押しきる自信と、サイズ・アングル・複数人や部屋内の建込みを納める構図の選択が都度凄く、さらに緩やか・規則的横並び人物らを捉えてくカメラ移動、時に対象を離れ部屋内天井や備品をダイナミック・大掛かりにまさぐったり、野外ステージ・客席を回り込み・退いたり横へ滑りどんどんメタシネマ的な仕掛かりが露わに、とかで言葉の表面性を越えて存在しつくし映画を観る行為の不毛をこちらの足元をヒンヤリさせつつの強靭な力に転化させてゆくところまで。9時間公演は抓み抓みの複数短カット連ね撮りになってたり、ラストの吉田も空間に戻っての人らも退いてくカメラもフランク気侭踊り続けは、作品も到達が半端で停止した分、吉田的現実・日常とのひとまずの映画世界の和解か。
表現が特権的というより、自由を代表し真に責任を担えた世界だった時代である、いまや匿名性or自己満足だけ、垂れ流しに近くなったが。メディアアートは安易には回せない所もあった。映像は、録音と分離し、写る感度も低く光源と闘い、記録媒体もワンマガジンの時間が限られてて、高額。シュートの段階で気構え・大幅踏み出しが出来ていたのだ。カメラ機能も限られててオート部分は少なく、こちらから造り込む要素が大。カメラの付随機能にお任せではなく、1からカメラを調教していった所からの、馬力・鋭角・大風呂敷から始まる、プリミティブでシャープな美・同時に鍛え上げられた創作の信念を直に受け取れる作品とも云える。
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作品規模・公開劇場・想定観客層がまるで違う一般商業映画といえる『えらぶの海』もある面同種の作品だ。沖永良部本島から少し離れた、家族四人だけが、真珠養殖・海女漁をやってる小島(少年は海亀の卵を守ってる)。ドキュメンタリーというにはあまりにいかがわしく、この家族とその描写の信憑性は10%もあるのかな、と思う位の作品だが視覚的壮大さ・安定感は、今の最新の高度縦横自在機器でも容易には、というレベルだ。それ以上、掛値誤魔化しない真のスケール。(岩場での)シルエット・(海底の)暗みのなかの質感、海中の濃い青・緑めから淡い抜けのいい水色の正確な数層、空も青からオレンジ・赤まで壮大・正確、浜の黄色め、島の内の自然力。色彩とその質感が驚くほど(実際とは若干差異があるにしても)正確で安定してる、舌をまく。事後に補正の効く今でもこのレベルは至難の偉業級。海中もフォロー・主観、どこでも行ける行き続けるカメラは今でもあまりみたことがない。魚群の多彩さと量、危険なサメとも普通にカット内で海女と遭遇・闘い。海女の今見ても全裸・エロに限りない肢体露わ、制御ないうごめき、も罪悪感も覚える程サービス過剰なくらい。沖永良部本島の、人・牛・風俗・生活の物量・味わいも惜しみないクラス。劇映画でもその辺をウリにしてる作品も多いが、あっさり問題にしない実限度・到達度。
カメラや記録媒体の属性に振り回され、自由自在度を誇る今様ではなく、カメラ・フィルム自体の本質と向き合い、そこからの表現スタートが、動機がパーソナルでもコマーシャルでも、より本物に接し強靭だった時代。個人的見解ではズームの一般化・濫用から今の時代の軽薄へ結び付いてってる。