紅の猫

バービーの紅の猫のレビュー・感想・評価

バービー(2023年製作の映画)
4.0
なにかと話題のバービー。これはチェックだなと思って観てきた。
良い映画だと思う。良い映画だが注意しないと見逃してしまうことが多いかもしれない。

バービー人形が暮らすバービーランド。そこでは様々なバービー人形達が社会を動かし、毎日を楽しく完璧に暮らしている。ところが本作の主人公である定番型バービーに足の形の変形やセルライトが生じる。その異変の原因はかつて自分で遊んでくれた女の子にあるということで人間界へケンと共にやってくるというストーリー。

さらっと観ると、中盤でマテル社の受付をしているグロリアが吐き出す女性であることの辛さがハイライトだと思う。バービーランドは女性が取り仕切る世界で男性は添え物。ラストでも男性はバービーランドで要職に就けずに終わるのでこの辺りだけを観てしまうと、ただのガールズパワー映画だと評価してしまうかもしれない。グロリアが吐き出す辛さは男性も当てはまると反感すら抱くかもしれない。マテル社の幹部には男性しかいない点も男社会を皮肉っている。

しかし、この映画はもっと重層的である。

まず注目したいのはケンが人間界で男性中心の社会を体験してエンパワーメントされるところだ。
女社会に生きるケンは男性が尊敬され社会を主導出来るとは思っていなかった。知らない価値観を知ったことによってケンはバービーランドの他のケン(バービーランドはみんなバービーかケン、アランが1人だけいる)を巻き込み男社会にバービーランドを作り変える。
ストーリーとしてはバービー達ががケン達を上手く仲間割れさせバービーランドはバービーが主導する国に戻るのだが、ケンが抱えていた添え物扱いされる無力さは女性が実社会で感じることに通じるだろう。男女を反転させることによってとてもわかりやすくなっていた。

主人公が定番型バービーであることも重要である。
特別な何かになれなくてもいい、あなた自身でいること、あなたが望むことが重要であるというメッセージが強く打ち出されており、それはバービーだけではなくケンも含めてである。男女という話ではなく、あなたという存在が何を実現したいかが大事なんだというメッセージが強く表されておりジェンダー平等の観点からも公平な表現であると思う。

では、やはりこの映画は女性の社会進出や男女平等に焦点を当てた作品なのだろうか。

この作品には裏テーマがある。

ケンがバービーランドを作り変えた時にバービーは、「今まで通り変化なんて望んでいない」と受け入れない。これは男社会だったところに女性が入ってきた時の反応と同じだろう。平等であるならこの反応はおかしいのである。もしこの映画が男女平等を謳うなら今までケン達をないがしろにしてしまったと反省するべきなのである。しかしバービー達は変わり者のバービーを受け入れたことと、1人のケンを地方判事にしたという変化はあるが最終的に元の社会に戻してしまう。

ケンはバービーでは無いというどうしようもない、まさに男であって女ではないというような理由でその制限を受け入れなければならないのだろうか。
バービーランドは理想的な社会のような顔をして描かれるがその実、男性を社会に参画させない男性差別の国である。

バービーの持ち主であるグロリアの娘サーシャが「女は男からも女からも嫌われている」とバービーに告げるが、これはフェミニズムに対する強烈な批判ではないか。
つまり、フェミニズムの文脈から語られる女性の活躍とは男性のコピーを産み出すことなのではないか、男女平等とは女性に男性の役割をさせることではないのではないかという批判である。バービーのような女性がいたっていい筈である。いい筈なのにいわゆる女性らしさを否定的に捉える面がフェミニズムにはある。

この作品の裏テーマは「女という性が持つ役割を否定するな」ではないか。
それを象徴するのはバービーを発明したルース・ハンドラーがバービーに告げる「仕事以上のことをしてきた」という台詞である。この台詞はバービーに台所で家庭的な雰囲気の中お茶を淹れながら語られる。
女性が担ってきた家庭的な役割を印象的に肯定するシーンに思える。
作品の前半、バービーが人間界にやってきたときにグレイヘアの婦人と話しをし、その雰囲気にバービーが感化されるシーンもある。
2人の老婦人とバービーが会話をするシーンは暖かくおだやかで他のシーンとは空気感が違う。
この2つのシーンがラストの産婦人科にバービーが訪れるシーンに繋がる。
最後のシーンは解釈が分かれそうだが、バービーがサンダルを履いていることから就職面接の類ではないプライベートな訪問であると推測できる。
普通に考えればバービーは人間となり妊娠したということになる。

フェミニズムの論調では、「女は子供を産むための存在ではない」という主張がある。
それは確かにそうなのだが、子供が産めるのは女しかいないのである。
この映画には女性の活躍というものは男性のコピーを作ることではない、女性が担ってきた役割を積極的に評価しようという意思がある。

この映画を一言で言えば女性をエンパワーメントする映画だろう。
しかしそれは、女性の社会進出ということだけではない、もっと女性には多様な可能性と選択があるのではないかと問いかける映画だと思う。
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