ニューランド

アイリッシュマンのニューランドのレビュー・感想・評価

アイリッシュマン(2019年製作の映画)
4.8
おっとり・より正確的確も、いつもの慣れ親しんだスタイルでまたかと思い、リズム・テンポがのろく、緩んだ『グッドフェローズ』のように始まった作品は、やがて下層出の人間ばかりで大して気の効いた台詞もない脚本・実年齢的に無理のきかない俳優ら・抑えたカメラや編集や音楽のリズム、のいずれもが決定的役割をはたさないままに、いつしか商業映画枠を超え映画そのものとなり、さらに先を行く他の芸術のTOPに肩を並べ(直接的にはシェークスピアか)、そしてそこすら抜けて現実と同格の何かとなる。音楽もカメラワークも編集力も(表面上)廃したホッファ殺害シーケンスがハイライト(という以上に映画史の流れが静止or停止?した30分間。『グッドフェローズ』の麻薬で御用のシーケンスをはっきり凌駕している。)としても、そこに留まるものでもない。『沈黙』もだが、映画としての体を失い瓦解しようとも、もう気にも掛けない凄さ・壮大さがある。出だしの既視感からとんでもない新境地まで行ってる。集成というべきなのか、しかし、ここまで来ると、私が口を挟むような事ではないが、次はいったいどこへ行くのだろう。
「トニー、トニー、トニー、イタリア人はトニーしかいないのか? どのトニーなんだ?」「お前が爆破しようとしたクリーニング店、他に誰が出資してるか、わかるか?→知らん→俺もだ、いや、知らんという意味ではない、出資者のひとりが俺という意味だ→悪かった」「お前は俺が表に出し育てた、お前に手を出す奴は許せん→あいつは本当にお前の事を、思ってる、大切に思え」「命令には従うだけだ、そして捕まっても共犯の名は決して割るな、何とかしてやる・待ってろ」「俺の親友が孤立しがち、命も危ない、ボディガードになってくれ、TOPの男だーというと」「金持ち兄弟は許せん、兄貴が俺ら(のもう一方の側)の力で大統領になって(カストロから俺らの物を取り返せなかった上に)、馬鹿な弟が司法長官にされ、生真面目にとことん追及してきやがる、面白くない」「そうだ、よくやってくれた、いいか、銃には向かってけ、刃物は逃げろ」「俺と真反対でお前は感情が表に出ない。皆に怒ったがお前だけは別、気付かなかったんだ、そうなんだ、やめるなんて云うな」「違う、年金が俺だけ貰えんことへの相談じゃない、謝罪しろ、あの時イタ公といったことだ→謝るさ、その前に俺が経験したことがない会うのにスーツも着ずの15分の遅刻、それを謝ったらだ」「何?魚の種類も指定せず魚屋で買ったというのか→届けるだけだし→変じゃないか」「(下の実務に手をまわし今の委員長決定を覆すとは、頑固極まりないお前でも)大統領も殺した奴らだ、チームスターの委員長など→とにかく組合は俺のものだ、年金だけで引退などせん、取り返す、委員長に返り咲く、譲れん」「近くでも式には出ないのか?→出るもんか→俺らはそっちへ向かい皆出る、その前にもう一度(トニー・)プロを交えて三人で会おう、マフィアは我慢したが、限界と云ってる→会わん、それに対しては全てが公にばらされるだけだ・・・・気が変わった、2時でどうだ?そこには来ないあいつのことだけど認め・尊敬してる、口論になって和解はないけど」「いや、午前中には着かん、女房らを置いて二人で遠出だ、その後1人で飛行機でデトロイトへ向かえ→えっ?→間に入って止め続けるだろうお前をこっちに引き込む」「お前たち家族を守る為必死だった→わかってないわ、パパ、私達は何も言えなかった、反対すると何をするか、怖いだけの人だったから」「火葬はいやだ、それで本当に終わりになる気がする→馬鹿な、皆死んであなた一人だ、子どもの世代しか残ってない、謝り、全てを告解しないか、意思の問題だ→(使用の薬でおかしくもなってるが)ずっと探っていたい」・・・脚本家変わろうが、多くいつもの余りに馬鹿げた会話に呆れるが、しかし、これまでの作品がある種の独特のノリで惹き付けたのに対し、本作は当時の音楽続きや、時制を不必要に細かく往き来してのその場の説明、時代や場に併せての陰影・クリアさ・光芒・原色力の巧みな調整、時折真の暴力の生まれる捉え込みあれど極めて丁寧に・スローな正統のサイズ・アングルの描き込み、全てどこか懐旧的なメロウな空気・流れの包みを表してて、そんな中の会話・仕種はまた、師弟・(クラスは違っても)同輩関係の相互の価値と存在の認め、そこにしか生まれなかった人間のもう一人への希求・強いせつなさを、そこからを越えていつしか魅せ・観る側の熱も集めて失いたくない固有で絶対を、意識させないで感じさせるものになってゆく。私は表には出せないどこかで泣いてもいる自分を、次の例のシーケンスの鑑賞も含めてだが、感じる。独自の本物の自然な人の濃さがいつしか成されてある。(そういう進化の道は辿らないだろうが)人が虫ケラであった時代の、血縁や信念やいきさつ・ヒューマニズムもどきの全てより、自己の生態の自然に惹き付けられた中からの互いにあるだけの、接点が有るのか・無いのかすらどうでもいい関係の本能的自覚、対立・排除・裏切り・エゴイズムの表面的要より遥かに深い内なるもの。それは私たちも生きてきて感じてきた何かだが、映画や他の表現に表される次元のものでもなかった、これまで。近代にも中世の概念にも属さぬ、文明・文化・歴史に載ることのない。また、それこそが真の映画の向かうことを躊躇ってた純粋なかたちなのかもしれず、それは次のシーケンスがより明晰にしてゆく。
同時に、抜き差しならぬ人間と社会のしがらみ・軋轢がいつしか内より自然・壮大に張り巡らされ尽くしてる。チームスターとマフィアのメンバーが入り組み・その自在融資も一方で行われんとし、一方で線引きの譲れぬ誇り・見下しも存在する中、おかしな人たちが持っている本当の力・影響力も、いろいろエピソードや、時々のTVニュース国政時事映り込み・挿入(ドラマにも直に影響多)も絡んで実感として見えてくる。内からの触手が伸び這って捻れ合い『カジノ』を実質上回る力強さが絡め取り切って、内よりぞくぞくさせる魅惑・格が感じられてくる。低俗スコセッシ世界が、真の品格をいつしか纏ってる。いや、前言を裏打ちし、只映画だけがこれまで目に出来なかった真の純粋な姿で在る、のかもしれない(只、アカデミー賞辺りのきらびやかな舞台には向かず、『ジョーカー』辺りには分が悪いだろう。パチーノの助演賞は確実としても、外の受賞は技術パート位しか思いつかない。)。映画は表現の手段でしかないと普段考えてるが、ごく稀に、見掛けのジャンル色濃さ・埋没に反して、内より生まれ張り詰める映画そのものを感じる事がある、天啓的か地面の底から。少なくとも私の周辺では、この作家は映画の純度・高度さはあまり持ち合わせてないとされてる、王兵やキアロスタミ、イーストウッドやスピルバーグ・タランティーノに比して。そうだろうか、美は固定した所への到達度ではかれるのではない、常にそのゴールは変容し意識して掴むことはできない事の理解者にのみ、届くものなのでは。
デ・ニーロの鈍くなった演技的反射を、勘案してかその役をパチーノに振ってるかんじだが(見事以上に応えてる)、無理の効かなくなった俳優らを最良の形で活かしてく演出は恐ろしいレベルに、先の事も併せて、達している。それを抜いても初期のスコセッシ分身、結局出れなかった『グッドフェローズ』との関わり以来の、カイテルは限られた出番だがやはり他監督との仕事に比べ、一段と冴えてる。不自由な現実の俳優らの身体性は、それまでの恨みをはらすかのように終盤これでもかと、憐れさを越えて全開となる。
そして、いつしか映画史上でも殆ど稀な奇跡の30分に、気づかぬ間に突入している。ここには冒頭からあった老人となった主人公の映像と同化してた語りのかぶさり(STOPやSLOW等絵のアクセントも)も途絶え(つまり、「本当を語り尽くせ」という訪ねてきた者たちへ、遂に明かさなかった、心の内にしまった真実、客観事実を超えて心の透明と痛みが一体化した、言葉に決して置き換えられぬ、生涯意識せずに並走させてる何か。つまり、ラストの老残はその事実・外形に留まらないのである。救い・赦しは自らの痛みの中に、意識せずも存在してる。それに死ぬまで目の前の事しか見えない人間は気づかないだけだ。ジェイク・ロドリゴを想い起こす)、只ストレートでシンプル、一見大まかもこの上なく透明・精緻、限られたも自然この上ない、僅かのパン以外は動かないショットが現実音だけを帯同させて繋がってゆく。やみくもに駆け付ける者も・狙われてる者の人のいい義子も・先乗りスナイパーも・そして狙われてる本人も、ここでの四人の登場人物全てが、馬鹿な会話まんまも何か隠してるよう、何かを秘密裏に進めてるようにも見えて、じつは切迫感に差異はあっても、皆本能的にピュアに熟考もなく、動いてる素直な人間の切実・おかしさがストレートをいとおしくも現わしてて、交わらない多様さがそのままにスタイルとマッチした、限界のない単純さ・美が実現されてる。大変な大詰めを誰しも感じつつも、正しい進行点を誰も分からず、宙ぶらりんの真空期が拡がり張り詰めてる。いつしかピンと襟を正さざるを得ない、清潔感・純度がある。その上でこちらも無防備な感動に入ってく。また、その飾りなさはこちらの心に微妙に暴力的であったりする。この商業映画にあるまじき大胆・率直さはブレッソンをまず思い浮かべたが、そのレベルでもまたあるまい。
3時間半の上映時間に特に意味はないだろう。’70年代の『アリス~』『ニューヨーク~』の頃から製作デスク・興業側との軋轢が始まる前の当初完成版は3時間、4時間半あったというし、前作『沈黙』も3時間15分がファイナル・カットの筈だった。要は以前キェシロフスキー辺りと自作を比べ、所詮アメリカ映画の枠内だからと本音を洩らしてた作家が、昔見た映画で持ち出していいかわからないが、『サタンタンゴ』辺りを意識したかのような存分のコントロールが出来たという事が重要だ。そもそも日本、それも片田舎育ちの私には、感覚的にもこの作家の世界・呼吸リズムは全く理解できない、何だこりゃといつも思う(タルコフスキー・イーストウッド辺りなら、多少なりとも身近に感じられるーそれで辛辣になったりもできるが)、しかし、男が異物の女に惹き付けられるように、いつもとても期待出来ない企画(『ゴッドファーザー』『グッドフェローズ』ギャング・マフィアの映画など日本人の私には正直どうでもいい)・興味持てないなぁと思うわりにはいつしか高く評価してしまう(『アリスの恋』『キング・オブ~』『カジノ』といったどう見ても映画の傑作、以外のこれ何?的作品でも)。でもそれが映画だ、映画の観方・観る事の意味だ。自分を慰めるだけためならもっと別のものがある筈だ。本作の今の時代に背を向け・また逆に包み込むようなリズム・ペース・(ユーモア)センスは、スコセッシ自身が同じようなイメージを感じたキューブリックの最高作の1本『バリー・リンドン』を想わせ~長尺期の(ド・)オリヴェイラ作品の内からの歴史・個の巨大さすら~、スコセッシにとっても『ミーン・ストリート』からの意識的な映画史・民族史への総括的刻印たる連作?、最も貴重で偉大な(5本以内の)作品群の内の1本である。『沈黙』がみるからにギリギリで対象のコントロールの余裕どころではなかったのに対し、本作は単なる制御を越えた、距離・操作・昇華のひとつ上をゆく巨大さ・人智を超えた芳醇さを放つものになってる。デジタルに高価最新技術が必要で、その為の製作費高騰でなかなか製作にこぎ着けなかったというが、いざ観てみると、あくまで実際の役者が存在してある事を活かし、それを申し訳なさそうに補助する事だけに細々とデジタルが働いてるのが、いい。ルノワールやウエルズの辿り着いたところさえ思わせもする。
ひとつだけ苦情を。4Kの細かく自在のトーンで見れた本作のことではない。仕事がある普通の日には4時起きなのだが、今日は休みなので7時までゆっくり寝て東京へ、六本木に向かった。10時少し前に着いたがやはり『アイリッシュマン』の当日券はなかった。10数分ブラブラして帰るのにその辺りをまた通りかかると向こうから声がかかった。「『アイリッシュマン』を求めてらっしゃいましたよねえ」「ええ」「10時50分、Jの18番が空きました、買われますか」「ええ」。劇場に入って驚いた。少なくとも席の1/4は空いてて、それは上映が終わるまで変わらなかった。つまり、こうだ。これまでも何回も経験したことだが、主催者の方から、この映画史上の傑作についてろくろく知りもしない、何らかの商売の顧客・芸能関係者に大量に無料の招待券がばらまかれていたのだ。行けないことを律儀に伝え来た人の分だけ、当日分が発生したのだ。だが、大方が、映画ライターであってもきらびやかな映画にしか興味のない人たち、貰った事すら忘れるか、放っておいたのだろう。そして、大量の空席が生じたのだ。『ROMA』はどうだったのだろう。本当の本物、アカデミー賞絡みの話題でNetflixも短期劇場公開に踏み切る可能性は強い。しかし、思いの他、見かけはオーソドックスありがちに見えて根っこは高度で映画の一般的概念を超えてる本作、必ずしも今日の客席の反応もいいとはいえなかった。万にひとつ見送りの可能性がないわけでもない。まして4K上映は限られてくるだろう。こういう物は、変な業界の付き合いにとらわれず、愛好者にちゃんと開放してほしいと思う。(と思ってたら翌6日、唐突に『マリッジ・ストーリー』なんかと一緒に今月15日からの劇場公開が決定したとの掲示があった。仮に本年度公開作テンを選ぶとしたら『サタンタンゴ』~まだ今年観てないが~とどっちを上位に置こう?)
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