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ある夏の記録のryosukeのレビュー・感想・評価

ある夏の記録(1961年製作の映画)
3.9
シネマ・ヴェリテの代表的な作品。ドキュメンタリーを撮影する側の存在を鑑賞者にわざと意識させるという手法が新鮮。この映画自体を出演者に鑑賞させて、それについて彼らが議論する様子や製作者側の映画に関する議論なども映画に含めてしまっているのが面白い。これらの試みはドキュメンタリーのフィクション性を覆い隠すことをやめ、できるかぎり作為的な要素を排除するために行われているようだ。
ただ、作為が完全に排除されているかというとそうではなく、強制収容所で付けられた識別番号を先にさりげなく映しておいて、後から収容所経験を明かすなど映画的な演出は用いられている。また、冒頭の「幸せですか?」インタビューについても、反応が面白かったり、絵になるものを選別しているのであろうから、作為的な面はあるのだろう。このような作為がシネマ・ヴェリテの思想から問題になるのかは知識不足でよく分からないが。
全体的にかなり労働者寄りの姿勢を感じたので調べてみると、それもそのはず共同監督のエドガール・モランは元共産党員であった。
リアルな演出により登場人物の話にはかなり迫力が感じられ、彼らの虚無感、疎外感がひしひしと伝わってきて、共感させられた。また、フランス人の議論好きな性格がよい方向に出ているとも思う。黒人とはセックスはできないと黒人のいる場で堂々と言う女性と、笑いながらそれは性における差別だと返す男性という状況が発生するなど登場人物はかなりあけすけに自分の思いを語っていく。
パリの文化的なレベルの高さを思い知らされる場面も多かった。適当に肉体労働者にインタビューすると抽象的な質問に対して人生に対する自分なりの洞察を絡めて返答するのには驚いた。
ちょうどいわゆるアフリカの年である1960年の映画なので、コンゴやコートジボワール、アルジェリアに関する議論もあったが日本で適当に労働者を集めてきて同じような題材で議論させたらこうはならないだろうというような活発な議論が交わされた。
特に工場労働者と黒人の移民の会話が印象的であった。移民の男性がパリの労働者は車も持っているし、母国の労働者とは違うと言ったのに対して、工場労働者がフランスの労働者は車こそ持っているし、見栄で高い服を買ったりもするが実際には不幸で貧しいのだ、間違えてはいけないと熱弁し、それを黒人青年がどこか悲しそうな顔で見つめるというシーンである。
客観的には生活水準はパリの方が上なのかもしれない。しかし、人はどんな環境でも結局何らかの不幸を見つけ出して勝手に苦しんでしまうのだろうなどと思い、辛い気分になる。黒人青年もやがてパリに慣れれば、パリジャン相応の不幸に囚われてしまうのだろうか。パリに越してきてしばらくは満員電車も安普請の家も好きであったが、慣れていくうちに不幸の原因に変わってしまったと嘆くイタリア人女性のように。
また労働者たちが自分たちの仕事は無意味であり、生活もすべて労働のためになってしまっている、この時代の不幸は仕事を選べないことだと語るのも身につまされるものがあった。
映画を出演者たちに見せるシーンでは、彼らの意見は映画が真実を映し出しているのか、出演者が演技をしているのかで真っ二つに割れる。どれだけ手法を工夫して、リアルな人間を切り取ろうとしても、結局見るものの解釈は全く異なったものになる。相互理解の不可能性、主客の決定的な断絶を感じさせる場面であった。
しかし、ラストにはジャン・ルーシュが「我々は繋がっている」というようなことをボソッとつぶやきながら歩きだし、冒頭の「あなたは幸せですか?」というインタビューの音声が被さって映画は終わる。どこか希望を感じさせるような演出ではあるのだが、やはり私にはジャン・ルーシュの言葉は虚しく響いてしまった。
カメラを向けられたことに気づくと人は必ず演技をしてしまうのだというが、ではカメラの代わりに「人の目」であればどうなのか?ということも考えさせられた。人々はコミュニケーションにおいて、常に人の目や役割期待、状況などに影響を受ける。ドキュメンタリーが演技によって構成されているというのなら現実世界だって同じようなものではないか?と。
そういう意味では映像論、映画論に収まらず、コミュニケーションの本質のようなものにまで迫る作品であったと思う。
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