エクストリームマン

ダゲレオタイプの女のエクストリームマンのレビュー・感想・評価

ダゲレオタイプの女(2016年製作の映画)
4.5
日本の伝統的な二種類の怪異譚をハイブリッドした黒沢清の新境地であり集大成であり。フランス人俳優&スタッフで撮ったフランス映画ではあるけれども。撮影順とは逆の公開順になった『クリーピー 偽りの隣人』にも本作は影響を与えている。人体を器具で長時間固定して撮影するダゲレオタイプの写真に顕れたフェティッシュな魅力を観客にも見せつつ、銀盤に、妄執と悔恨の彼岸に取り残された者の絶望、無自覚な境界の往来が必然的に齎す“死者の”喪失を描く、紛うことなき黒沢清映画。

ファーストショットからパリの空に垂れ込めた雲の不吉さをそのまま背負ったように歩いて行くジャン(タハール・ラヒム)は、思えば最初から、工事現場の前を横切る時から、歩道を外れて歩いていた。また、到着したステファン(オリヴィエ・グルメ)の屋敷の門前でジャンの背中を捉えたショットの僅かな上下は、ジャンが囚われる前から既に“彼女”に捉えられていたということだろう。エントランスの階段脇にある細長い扉がそっとジャンを彼岸へと誘うと、彼は躊躇わず境界を越えてみせるが、それは覚悟の上での一歩、ではなく、どこまでも無自覚な越境だったに違いない。彼と入れ替わりで“こちら側”へと抜け出してきた彼女は自身の姿を観客とジャンにしっかりと見せつけて踊り場から上階へと消え、静かに開幕を告げる。

本作ではカーテンで表される黒沢清定番の境界表現に加えて、屋敷の扉の手前と奥とをジャンが無自覚に行き来し、ステファンが恐れる時間的な前後、過去と未来、そして彼岸と此岸との境として多用している。特にエントランス脇の扉が映画冒頭から示す不吉さと、二番底的に奥の扉が開いた時の「地獄の扉が開いた」ような衝撃は、画的な効果も絶大であった。勿論、その直後の「階段の場面」は見せ方、間、共に素晴らしく、あの一瞬だけ、夢想の入り込む余地を微塵も与えないような突き放した描き方によって、マリー(コンスタンス・ルソー)の結末をステファンと観客に焼き付けた。後から駆けつけたジャンが見逃したその一瞬が、彼の結末をも決定付けたのかもしれない。また、ジャンの部屋で暮らすようになったマリーがカーテンの手前から窓の外を度々見ている姿は、屋敷の庭に立ってステファンを苛み続ける母:ドゥーニーズ(ヴァレリ・シビラ)に、自身の未来を重ねて、留まりたいその瞬間が決して永遠でないことに思いを馳せているように見えた。

そこにいないはずのものが見えることが一般的?な幽霊の恐ろしさなのだとしたら、そこにいること、確かに存在することの恐ろしさを見せるのが黒沢清の幽霊で、その意味でマリー役のコンスタンス・ルソーは適役であった。アップになった時、微細な動きをし続ける彼女の瞳は、それだけで不安を誘うと同時に得も言われぬ魅力を放っていて、引きの画でうかがわせる素朴な活発さと、蒼いドレスを着て撮られる時の静謐さの中間に、彼女の顔、取り分け彼女の瞳はおさまっているように思えた。

捉えたい一瞬の為に、永遠に大切な瞬間を取り逃し続ける皮肉は、それを知ったからとて止められるような類のものではないことだけが本作の一貫した掟であったに違いない。屏風から虎を出すよりも容易に銀盤の向こうから手招きする彼女たちが何を考えていたのか、去り際の一言が何であったのか、想像は尽きることがない。

良い旅だった。