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淵に立つのundoのレビュー・感想・評価

淵に立つ(2016年製作の映画)
4.0
とある家族の黙示録。

深田晃司監督。
平凡な家族が、1人の男との共同生活を経て、その姿を大きく変えていく様を描いた、一味違うホームドラマ。

罪にまみれた物語。
見た直後は重たい気分しか感じられなかったけど、時間を置くとジワジワくる映画。
各シーンのもつ意味を考え出すと、なんとなく大きなテーマが見えてくる。

罪は赦されるべきか、罰せられるべきか。
いくらゴシゴシ洗っても罪の穢れは落ちない。
では、どうすれば?

赦されるとしたら、その贖いは?
罰せられるとしたら、その罰は?



※ここからネタバレに入ります。











まずは各登場人物についておさらい。

まず最初に登場する罪の象徴、八坂。
過去の殺人については、服役を終え、真摯な態度で悔い改めているように見える。
しかし、彼は再び罪を犯してしまう。
蛍を傷つける直接的な描写がないことが少し気にかかるが、助けを呼ぼうともしていないことから、彼がなにか乱暴をしたという前提で話を進めることにする。

夫の利雄。
彼の罪は、当然、過去の殺人の共犯。
そしてそれを隠したまま、八坂を招き入れてしまったこと。結果としてその行動が悲劇の遠因を生み出す。遅すぎた罪の告白も、改心したからではなく、疲れから、のように見える。本当に悔い改めているのなら、八坂を探したり、孝司を衝動的に叩いたりはしないはず。
恐らく、救われるためにやれるだけのことをしようというサル型。

妻の昭恵。
彼女の罪は、八坂に思わせぶりな態度を取り続けたこと。用事もないのに、部屋に居座ったり、キスもまったく拒まない。誤解されて当然。
八坂の凶行の直接的な引き金を作ってしまう。
罪の意識から重度の潔癖症に。しかし、彼女も八坂に対して恨みを捨てきれていない。彼女も孝司に八つ当たりをする。
恐らく、救われるために誰かが手を差し伸べてくれるのをただ待つだけのネコ型。

彼らの罪を背負わされたのは、言うまでもなく蛍と孝司。
蛍の姿は、夫婦の罪に対しての罰の象徴。
孝司は、父親の犯した罪のために死んでも構わないという。十字架にかけられたキリスト的な赦しの象徴。

ラストシーン付近の私の解釈。
昭恵だけが息を吹き返す描写があるので、生き残ったのは夫婦2人だけと思われる。
まともに動けないハズの蛍が泳いだように見える演出は、恐らく、彼女の死と解放を意味するのだろう。
彼女と孝司の死によって、夫婦と、そして八坂の罪も赦されたのだろう。贖いというには、あまりにも大きな罰をもって。

そういえば蛍は言っていた。
「私はお母さんを食べない」

重たい!

2016 10月27日追記
深田監督は「家族とは社会の最小単位。家族を撮ることは、社会を撮るということ」といった趣旨のことを語っていたようだけど、そう考えると、本作は、一つの家族のみならず、社会全体の歪みを示唆しているのかもしれない。
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