netfilms

緑色の部屋のnetfilmsのレビュー・感想・評価

緑色の部屋(1978年製作の映画)
4.0
 第1次世界大戦から10年後の1928年、フランス東部の小さな町。ジュリアン・ダヴェンヌ(フランソワ・トリュフォー)は愛する人と大戦前に結婚していたが、皮肉にも自分は命からがら生き残り、妻を事故で亡くした。どうして自分が生き永らえているのかわからぬ虚無の果ての人生。友人ジェラール(ジャン・ピエール・ムーラン)の夫人の葬儀に出かけ、悲しみのあまり泣き崩れる友人を心から慰めた。フランスが戦争の爪痕からの復興を果たした今もなお、ジュリアンは愛する妻とその思い出の中に囚われている。あっという間に歳月は流れ、以後40代になった今も独身を続け、年老いた母のような家政婦とみなしごで聾唖の少年ジョルジュ(パトリック・マレオン)とともにひっそりと暮していた。結婚後、わずかの間に事故で死んでしまった若妻の美しい肖像を何度眺めただろうか。遺品で飾られた緑色の部屋で生活する男は死んだ人のことばかり考え、亡き人との生前の記憶に思い巡らせ、あの日の思い出と共に暮らす。その姿はどこか無気力で、何より今を生きていない。

 トリュフォー監督長編18作目となる今作には、後に早逝する自らの死の予感が、辺り一面に立ち込めている。ちなみに主演俳優としても最後の雄姿でもある。突然亡くした妻を彼が生涯愛した「シネマ(映画)」に見立てるとわかりやすい。今ここに在る映画には全く興味を示さず、亡くなった人との思い出や言葉、作品にしか興味が持てない。現在や未来に何の興味も示せず、専ら過去の映画に固執する姿はあまりにも象徴的だ。幻灯写真に投影される愛妻との思い出の数々はシネマの起源とも重なる。母のような朧げな家政婦と暮らしながら、一番近くで『大人は判ってくれない』の頃のアントワーヌ・ドワネルのような少年を見守るのだが、口が達者だったアントワーヌ・ドワネルのように彼は口がきけない。教会を再建することはトリュフォーにとっては映画を撮ることとニアリーイコールで、そこで人生の師ヒッチコックや代父のようなジャン・ルノワールに精一杯の敬意を表して来た。映画を撮ることでかつての偉人たちと会話を試み、孤独な追悼を繰り返す彼の今作での職業は新聞記者で、『カイエ・デュ・シネマ』の記者として活躍したあの頃がオーバーラップする。彼を口汚く罵る編集長はおそらく、アンドレ・バザンかエリック・ロメールだろう。

 ジュリアンが『大人は判ってくれない』のアントワーヌ・ドワネルのような少年の力を借りて、教会の一室に作り上げた蠟燭だらけの部屋の奇妙で陶然とした美しさには思わず目を奪われる。それと共に、あの空間そのものが当時のトリュフォーの心の在り様を映し出しているようにも見える。彼が作った死者たちの祭壇をめぐる壁には彼が敬愛する芸術家たちの写真が飾られている。そこにはジャン・コクトーの写真に交じり、『アデルの恋の物語』から4作続けて音楽を担当したモーリス・ジョーベールの写真も飾られているが、今作の音楽も担当したジョーベールはこの時はまだ死んでいない。だがジャン・ヴィゴの『新学期・操行ゼロ』や『アタランタ号』の作曲をしたジョーベールの姿は確かにトリュフォーの心象風景のようなこの部屋に収まっている。それどころか『華氏451』で決定的な確執となった主演俳優オスカー・ウェルナーの雄姿も飾られている。ジュリアンが亡き妻への想いで共鳴し、仲間だと信じたジェラールの裏切りの挿話はトリュフォーとゴダールの歪な関係を連想させる。かつては親友の間柄だった2人は今は顔を合わせず、ジャン=ピエール・レオやナタリー・バイを自身の作品の重要な役柄として取り合う日々だ。

 当時46歳となったトリュフォーには同時代の作家への嫌悪が滲むが、すっかり年老いた自分にはもはや『大人は判ってくれない』のような純粋で瑞々しい映画は撮れない。聾唖のみなしごの癇癪は当時すっかり円熟期を迎えつつある作家としての惑いであろう。苦悩する映画作家は心の中であの頃のトリュフォー少年を禁欲的に自制しながら、同時期に商業映画復帰作『勝手に逃げろ/人生』で商業映画に復帰したかつての盟友に思いっきり中指を立てる。傑作『アメリカの夜』で流転した人生は今作で私信のような緩やかな気付きをあの人に与えるが判っていたはずだがそこには何の反応も返って来ない。トリュフォーの映画監督としての屈折したリビドーを孕んだ今作は然しながら禁欲的でまったく違うアプローチで、前時代的で抑制された人々を演じることで、心底とち狂った物語を紡ぐ。  
netfilms

netfilms