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溶けるのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

溶ける(2015年製作の映画)
3.4

このレビューはネタバレを含みます

 公開当時観て、水に入るシーンと冒頭のカメラ横移動にえらく感動した覚え。また鏡にフレーム外の世界が映し出されていたりと、瑞々しいカメラ体験が詰まっていたように思えるし、再見してその記憶が蘇る(無意識か、自分が撮った映像にいくつか反映されてたり)。主人公と友人がアイスをスカートに垂らしながら食べるシーンは、のちに同じ構図でアイスなしで、友人の妊娠の告白に繋がることから、性的なニュアンスを仄めかしていたように思える。またその後友人と仲違いした後に、友人が画面を遮る木を横切るとき、一線を越え遠ざかる友人の心的距離感が表されているように思えた。形式的ではないが、初期衝動としてやりたいことが不意にポッと出てくる感じが画面からもわかる。

 ただ久々に見ると、内容はやや息苦しいというか、説教臭さを感じた。学生の頃というのは、何か怒りが先行するもので内容は後付けだったりする。それは大島渚が「青春残酷物語」で、若者が振りかざす拳を止める刑事に「これがお前らの正体だ」と言わせていることからもわかる。後半の、台詞ではないように生み出される主人公の「嫌い」の列挙は、まさにその嫌いという感情がまずあって、必死にそこに理由を付け加えるかのような間に感じた。おそらく、自覚的に撮られたわけではないだろうが。それが若さなのであって、観客として見ればやや青臭い部分は否めないものの、学生映画としての評価の対象だったのだろう。

 映像は、もやもやした気分を映し出すには生々しい。ふと思うのだが、この内容を別の表現形態を持ってしてやったらどうなるだろうか。音楽なんかで青春パンクっぽい歌の方が、たぶん響く内容だ。映像の具体性は、そのもやもやした感情に対してあまりにもそっけない映像なのだ。つまり、監督の意図する不安や嫌悪はカメラ前になかなか映し出されない。映るのは、大したことない平凡な家庭と学校なのであり(母と祖母という構図は我が家と一緒!)、個々の問題はこれといった特徴あるものではない。またこれを田舎特有の問題かのように言うも、都会住みの自分でも感じていたようなことだった。抽象的であるモヤモヤの正体に対し、映像が映し出す現実というのはは具体的すぎる。映画は、見える世界しか映し出されない。

 歌のようなエモーションをぶつける媒体と、見たままが映る映像と、表現するものは全く違う。岩井俊二なんかが青春の苦々しさを発揮した「リリィ・シュシュのすべて」なんかは、より恍惚とさせるような映像美と音楽で感情を増幅させていた。そうした感情の増幅がない中、逆に非常に冷めた目で我々は観るわけである。そして逆説的に、岩井俊二が表現した青春には自己陶酔が欠かせなかったのだと知り、青春とは自己陶酔の賜物だと気がつく。そこに”浸る”べきか、逃げるべきか。今作はその点で言えば、岩井俊二よりも大人な作品である。

 水に飛び込む。その発端を今想像してみる。なぜ飛び込む決心をしたか。日常であの高さを飛び込むというのは、なかなか行動に起きないわけで、ともすれば自殺しようとしたのが発端だったりと考えてみたり(同じく学生映画の「冬のほつれまで」にも似たような柵なしの橋が出てきたが、主人公は踏みとどまっていた。そしてやはり川にはどこか自殺の雰囲気が漂う)。作中では描かれていないのが残念だが、きっかけが気になった。そしていつしか飛び込みは浸る行為となり、それはぬるま湯に浸かるような自己への甘さへと変化する。また学生という存在の無力感から、現実を改変できず、逃げるしかできないのはリアルだった。「溶ける」は、「溶けた」にならず、ずっと現在形で彼女の口から発せられ続けられる命題なのだ。それはある意味で、強い宣言であり、主人公の気概の折れなさに希望を見出すことも可能かもしれない。

 井樫彩監督が今作以降、女性二人が主役であるものが多いようで(どれも未見だが)、今作のセックスに纏わる嫌悪感による救いの先が、同性愛であるという道だったのかなと思った。
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