ナ・ホンジンは、ただひとつ、この攻撃を避けるのか、避けずに通るのかとのみを問う。
『哭声 コクソン』
令和になってからも相変わらず映画だけは気忙しく観続けておりますが、奇妙なサイクルに陥り脱けだすのに相当時間がかかりました。
巡り合わせが宜しくない時は果てしなく続きそうです。
特にキム・キドク『殺されたミンジャ』が予想通りおもしろくなかった事を通り越え、陰鬱な印象のみしか残らなかった夜は辛かった。
(商品)として質が低い高いとか、(物語の構成)が退屈か面白いとか、という以前に映画的な演出がワンシーンさえあるわけでもないのにキム・キドク自身が映画に触れ続けていると信じているかのような寒々しさが陰鬱な印象を招いたのです。
描写が残酷とか、正視に耐えぬ、という意味ではありません。
そんな光景、私たちは星の数ほど観てきた筈。
例えば謎の世直し過激集団のリーダー、イ・ドンソクの尋問場面を深作欣二『県警対組織暴力』の菅原文太が川谷拓三に迫る場面と比較してみれば、痛々しい拷問のリアリティ云々より、ひとつの場面を映画的空間に変容せしめる配慮にあまりに欠けているのは明白です。
そんな折にキム・ギドクより少し若い世代のナ・ホンジンに久方ぶりに触れました。
弛緩しきった画面に辟易しかけた頃、唐突に根拠もない純粋さに支配された画面に痺れたような心地よい悪夢を味わえて幸いです。
暴力への感性がすっかり希薄化し、陰惨な側面に無感覚になりつつある現代アジアに相応しいホラーでもアクションでもない。かと言ってサスペンスや奇譚とも異質な、純粋に(攻撃だけに満ちた)映画です。
ゾンビ化した犠牲者が奇妙に笑えてきたり、クァク・ドゥアオンの主役ぶりと舞台装置がファンタジックでもエキセントリックでもゴシックロマン風でもない、などと本能を見失ったような声が多数上がっていたのも頷ける気がしました。
本来、攻撃とか暴力はそんなものではなく、極めて単純なもの。
アクションもホラーもサスペンスも、その気になれば魅力を際立たせる方法はいくらでもあるし、それらを愉しむ術だって私たちのありよう次第でどうにでも洗い直せるものです。
ですが攻撃とまともに向かいあえば、恐ろしさの前に、それから逃れるか?逃れえないか?しか残されない。
そしてナ・ホンジンは、ただひとつ、この攻撃を避けるのか、避けずにいるのかとのみを私たちに問うております。
これは飽くまで本能に根ざした問題であって映画の魅力や技量とは異質なもの。
復讐とか怒りなどが介在しているわけでもないナ・ホンジンの悪魔は、だから理由もなく村の人々を鷲掴みにするような唐突な攻撃を企ててきます。
ゾンビ化した犠牲者や怪しい日本人・國村隼の家で飼われている黒犬、そしてエクソシストばりの除霊儀式でさえこれ以上にないくらい攻撃的です。
娘が何故選ばれたのか?
何故、悪魔が日本人でなければならぬのか?何故唐突に現れた霊媒師が相当な世間師のように事情通なのか?
大体、あの女チョン・ウヒは結局、敵なのか味方なのか?
そんなまがまがしい疑問さえ一蹴するかのような「哭声 コクソン」の攻撃性は文字通り(声)が過剰な腕力となり、いかなる距離も介さずに観ている私たちに迫ってきます。
そして何といっても、國村準が正体の姿をあらわにする事で構成されるクライマックス。
かつて「ブラックレイン」で國村さんと共演された松田優作さんに見せてあげたい。、
(東洋の鬼)と化した優作さんの日本俳優遺伝子は今でもしっかりと全世界の映画界で息づいているのだ、と。