カラン

永遠と一日のカランのレビュー・感想・評価

永遠と一日(1998年製作の映画)
5.0
永遠について考えてみる。

永遠というのは永遠なのだから、全てを含んでいるはずである。永遠について今私は考えているのだが、この私の今の思考は、私の考えた永遠に含まれていたのだろうか?私が今について考えるとき、その今の外部に私はいるはずである。すると永遠について考えている今は、永遠の外にあるのか?ゆっくり考えたほうがよさそうだ、私はよく計算を間違えるから。

例えば、何名様?と聞かれて、数えてみて、あれっと数え直した経験がある。私と君と彼と彼の恋人と彼女と彼女の友達で、自分を入れたら、「7人です」 あれ? そんなにいたか? もう一度数えると私の目の前に5人いる。私の目の前にいないのは私。だから合計で、7人と私は数えてしまったのだ。本当の私は数える者なのであって、数えられる者なのではない。私は除け者でなければならない。この映画の主人公アレクサンドレが呆けた老母に向かって、「なぜ私は一生、よそ者なのか?ここが我が家と思えるのは、まれに自分の言葉を話せたときだけ。・・・そんな稀なときにしか自分の足音が聞こえない。」と嘆いていた。私は私ではないし、私は私を数えることはできず、私には私の足音すら聞こえないのだ。

永遠の話に戻ろう。私の考えた永遠に、その私の思考は含まれていないはずだ。永遠が永遠ならば、永遠の外の時間などない。だから、『永遠と一日』という表現は恐ろしい矛盾をはらんでいる。しかし、《皆んな》というのが目の前の友人たち +1 であったように、実は永遠(E)とは、永遠と永遠について考えているこの今(+1)のことだと考えてみよう。したがって、

E = E+1

と、今や、表すことができるだろう。しかし・・・私はよく計算間違いをするので、疑いたくなる。この新しい永遠(E+1)には、[E+1]について考えているこの今(+1)は含まれているのか?もし、含まれていないとすると、

E = [E+1]+1

と表せばよいだろうか?しかし・・・そうすると・・・

E = [[E+1]+1]+1・・・?


こんな数式は私の望んでいるものではない。映画に戻ろう、冒頭、幼年期を過ごした海辺の家の回想から始まるが、幼いアレクサンドレと、その友達が海に沈んだ海底都市が浮かび上がる夜明けの瞬間の話をしている。海底都市が明け方に出現するとき、「時が止まる」らしい。夜明けスキャットが聞こえてくる。ルール ル ルルー、ルール ル ルルー、愛し合うその時に、この世は止まるの、時のない世界に二人は行くのよ・・・

さきほどの「よそ者」についてのモノローグを全体的に引用しておく。

「お母さん、どうして願いは願い通りにならないのでしょう?なぜです?なぜ私たちは希望もなく、腐ってゆくのか、苦痛と欲望に引き裂かれて。なぜ私は一生、よそ者なのか?ここが我が家と思えるのは、まれに自分の言葉を話せたときだけ。自分の言葉。失われた言葉を再発見し、忘れられた言葉を沈黙から取り戻す。そんな稀なときにしか自分の足音が聞こえない。」

私はいつも数えている。まるで強迫神経症の強迫観念のように、数え、言葉を探し続けてる。しかし残念なことに強迫神経症者は自分の言葉を創り出すのは得意ではない。そうだ、あの詩人が、私の真実を言い当てる言葉を知っているはずなのだが・・・。この映画では、知っているはずの主体となるのは、例のイタリア生まれだがギリシャ語をギリシャ人から金を払って教えてもらい、ギリシャ独立を祝福する詩を書いたという詩人、ソロモスである。こういう真理を想定された主体なる者の登場は、アンゲロプロスでは同じみの展開であり、『ユリシーズの瞳』では、バルカン半島で初めて映画を撮った、無垢なる眼差しを持つはずのマナキス兄弟という形で登場していた。次は妻の手紙の引用。

「本のことしか考えないのね。
いつになったら二人になれるの?
あなたが飛び去らないように、ピンで刺し止めたいほど大事な時だったのに・・・
考えているあなたが怖い。
その沈黙に割り込むのが怖い。
だから私は体で、自分は傷つきやすいのって伝えたのよ。それが私の唯一の方法だった。私はただの恋する女なのよ・・・」

いつになったら二人になれるのか?これはいつになったら二人が一つになるのか?という問いなのであり、すなわち、いつになったら私は数え終わり、家に帰って来てこれるのかという、オデュッセイア的な問いなのである。この今は亡き妻の手紙においても、今日が私の人生の最後の一日にもかかわらず妻に責められている。この罪悪感の原因は何なのか?私が時を数えて、永遠を捉え、私が私を言い表す言葉を見いだそうとすることの、どこに罪があるというのか?妻が私を責めるのは、私たちの娘が生まれたあの海辺の家でのお祝いの日のことを幻想したときもそうだった。

私は妻の罵声を振り切って、山を登る。それで全体を見渡し、全てを見通したいのだ。幻想の中の幼年期の海辺の家から、今に戻ると、少年が消えている。誰かが、海に落ちた。少年の同胞の子が溺死した!

この少年は、アルバニア系の不法移民で、路上で人身売買の犯罪集団から救った子供だった。今日は私の最後の一日だから、この子に金を渡して国境までタクシーで送らせて、犬のように追い払おうと思っていた。しかし、子供が嫌がるので、追い払えないうちに、いつのまにか寄り添い、いつのまにか、まだ行かないでくれ、そばに居てくれと嘆願までしてしまった子供だった。この子供たちの正体は?

この不法滞在の移民の子供は、私、なのだ。私はよそ者で、私は数に入れてもらえない者で、安らかな居場所を見つけられていないのが、私、なのであった。私とは、永遠の外で、永遠に張り付いて、いつまでも付いてくる、+1、なのであった。+1がいつまでも続いたように、子供たちは複数であり、永遠の集合を閉じさせてくれない。子供たちはしつこく私の計算を終わらせないが、私の計算に希望をくれる存在でもある。

ここでもう一度、最初の計算に戻ろう。

E = E+1

この式はどこかおかしい。なぜ、EがE+1に等しいのか?E = [E+1]+1はもっとおかしいし、E = [[E+1]+1]+1というのは、さらにいっそうおかしい。まるで、Eから、私は永遠に離れていっているようだ。アルバニアの国境まで少年を送って行ったとき、霧が立ち込めた検問のフェンスに子供の影のようなものが見えた。E = [[E+1]+1]+1・・・+1+1+1・・・、子供の複数化に私の永遠の計算は止まらなくなる。これは、考えてみれば、永遠に一日を足した初めのときから、おかしいことだったのだ。恐ろしいことに、フェンスの子供たちは動かない。死んでいるのだ。国境の検問のフェンスで、見せしめに吊るし上げられた死体が風で揺れていたのだった。E = [[E+1]+1]+1・・← -1-1-1-1-1・・・

幼年期への回想と子供との出会いは、子供の複数化によって私の永遠が拡大しながら、いつのまにか私から遠ざかっていくムーブメントであった。今や、子供たちの死は、私の永遠を収縮させ、私を永遠に近づけるのだろうか。寄せては返す波打ち際のように、私の永遠が膨らんだり萎んだりして、私は永遠から遠ざかったのか、近づいたのか?子供たちとは生者なのか死者なのか?私とは+1なのか-1なのか?

下の引用はエンディングシーンから。汀で、海を見ながら老人は一人、言葉が溢れ落ち続ける。誰もいないのだから。波が高くなって、老人の頭の辺りにまで波が来たかのように、ミディアムショットから肩ごし、頭ごし、とカメラがせり上がっていき、老人は波の中にいないのに、波の中に溺れていく。この穏やかで明るい波が狂ったような高まり、老人を覆っていくのは、夏目漱石の『それから』で、代助の狂気という火の車がぐるぐる回っていくラストのような圧力を感させるシークエンスである。そして狂ったようなカメラに、老人の1人対話は劇中でもっとも正気でない言葉へと変貌する。はじめてこの男が詩人であったことを意識する瞬間だ。以下、老人と波だけしか画面には映っていない世界でのことだ。

「アンナ、明日、病院に行くのはやめるよ。明日の計画を立てよう。・・・いつか君に聞いたね、明日の長さは?って。君の答えは・・・「永遠と1日」・・・聞こえない。何と言った?・・・「永遠と1日」・・・アナ? アナ・・・私は今夜向こうへ渡る。言葉で君をここへ連れ戻す。

全てが真実で、全てが真実を待っている。

私の花、私・・・よそ者・・・とても遅く・・・私の花・・・よそ者。・・・」





作家の池澤夏樹が、テオ・アンゲロプロスに、この映画は希望に満ちた作品だと解釈していいのか?と恐る恐るたずねると、アンゲロプロスは、少し言葉を詰まらせたようにも見えたが、ゆっくり言葉を手繰り寄せながら、それは正しい解釈だ、と答えていた。アンゲロプロスは優しい人だと思う。
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