皿と箸

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアの皿と箸のネタバレレビュー・内容・結末

4.4

このレビューはネタバレを含みます

非常に面白い!傑作だと思います。

自身の罪の意識が徐々に日常を侵食するといういかにもヨーロッパ的な映画をアメリカで撮ると言うところがアイロニカルで反アメリカ、資本主義の源流としてのプロテスタンティンズム批判的なメッセージを感じました。
また医者という設定も知性によって自然を克服せんとする存在としてメタホリカルですし、それが超越的な力によって追い詰められていくという図式は主知主義批判的な側面を明確にしています。

それはこの主人公を含めた家族がいかなる状況に置かれようと、利害損得の枠の中で最適化する事しかできない機械の様な存在として描かれ、独立した個人として「何も意志出来ていない」という部分でもあり、

さらに歴史的にキリスト教(プロテスタントとりわけカルヴァン派の信者達)が自身の救済を信じたいが為に神に跪き、神の意志を忖度し、利得に対して合理化していった姿をギリシャの哲学者達は主意主義の立場から批判的に見ていた事や、結果としてそれが現代の資本主義社会を形成していった事に対するメタファーとしても機能します。

近年作だとザ・スクエア〜思いやりの聖域〜にも似ている図式の映画ですが、子供の描き方が全く真逆なのは見逃してはならないポイントだと思います。
スクエア〜ではあくまでイノセントさを湛えた存在として描かれますが、本作では子供までが倫理や感情が劣化した大人の感受性を引き継ぐ存在として振る舞います。

蛙の子は蛙という訳です。

序盤にスティーブンはマーティンに施しを与えますが、それも贖罪意識から解放されたいだけ。
マーティンによってルールを規定されるとそれぞれ殺される対象に選ばれない様に必死に椅子取りゲームをする。
最終的に決断する事も出来ず、
命をロシアンルーレットの様に扱います。

この映画の家族を「クズだなぁ」と思える感性はある意味で倫理的だと思いますが、一方で当然私達も資本主義が成熟しきった世界に暮らしていて多かれ少なかれシステムに最適化して暮らしている訳です。

なのでこの様な映画を教材として、システムから意図的に距離を置き倫理や精神を失わない様に努めていく事が実践的には役立つと思うのでした。
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