りょう

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアのりょうのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

DAZさんがTwitterで終始不気味だとおススメしていた作品とのことで視聴したが、純粋な感情でもう一度見たいと思い実行したのはこの作品が初めてだろう。

確かに、この作品は常に不気味である。さらに不気味なのは、一度見終わった後にもう一度見ると、そのシーンが一体どういったシーンなのかがわかってしまいさらに恐ろしく感じてしまうところだ。

ここからは私個人の考察も含めて書きたいと思う。

この作品では主人公に父親を殺された少年が何か不思議な力を使って主人公の家族を苦しめていると考えていると考えている人も多くいるが、私は彼が音楽で苦しめていると考えた。

根拠は3つある。1つ目は彼は主人公や奥さんには音楽を聴かせないが、娘や息子には聴かせているシーンがある点。2つ目は息子が音楽を聴きながら目から血を流した点。3つ目は娘が何度も音楽プレイヤーをなくしている点。

そもそもこの作品の謎のとして、どうして奥さんには症状がでないのかである。奥さんがしていなくて、子供二人がしていることといえば音楽を聴く以外この作品にはないのである。娘が一度だけ立ち上がれるようになるシーンがある。そのシーンでは少年と電話しているのだが、その時に少年は娘にその症状が良くなる音楽をかけたと考えれば辻褄が合うのだ。そして息子が犠牲になった後、少年からの音楽を聴く必要もなくなり娘が普通に立てるようになったと考えた。

この作品を初めて見たときは、なぜ彼らがこんな行動をするのか全くわからなかったし、深くも考えなかった。だが、考察をみた後で再度視聴すると、彼らの声には出さない心の声がうるさいほど聞こえてくる。死にたくない、死ぬならあいつだ。そういった声が副音声のように聞こえてくる。そこに人間らしさを感じ、また今まで見た映画とは違った雰囲気に圧倒された。だからこそ二度みる必要があるのだ。

今回ここに書いた考察は完全にオリジナルである。どれも音楽が原因としていない。1つぐらい的外れな考察があってもいいだろうと思い、ここに記した。

きっとこれはまだ難しい映画の部類ではないのだろう。しかしこの作品を見たことで私の映画の見方が広くなったのは確かだ。
りょう

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