シートン

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 デジタル・リマスター版のシートンのレビュー・感想・評価

4.7
エドワード・ヤンの映画の夜の青い月明かりに照らされた世界が好きだ。

とても長い映画だ。クライマックスの事件を鮮烈に描くだけなら、1時間くらいでまとめられるようなストーリーである。だが、やはりこれだけの厚みをもって描かれなければならなかった、ということに、観終わったあとで納得する。事件の原因、事件の過程、などというものがいかにまとめがたいものか、因果性なるものがあるのだとして、それがどれだけ複雑で冗長で瑣末でしかし社会的か、そういうことを考えさせられる。刑事ドラマのようにはいかない。

そして、それだけの厚みをもってバラバラに見える出来事が淡々と映し出され、映し出されると思った瞬間、切り替わる。それぞれの出来事は繋がっていないようで、繋がっている。しかしやはり繋がっていないようにも見える。そのような事象と個々人の感情の蓄積が、炸裂する瞬間というものがある。

現実というものは一筋縄ではいかない。現実というものはくだらない。しかしその現実によって別の現実が巻き起こる。その現実はときにおぞましいものである。

小四は小明を想った。彼女の救済を願った。彼女に奉仕し救済することで、自らが救済されることを願った。だから、彼は小馬を殺そうと思った。だが、先に小明に声をかけられてしまった。それでも、彼の思いは一貫していた。彼は小明を再生させようとした。そのように明確な意志は持っていなかったとしても、彼女に小刀を突き立てることは、彼にとって彼女を永遠に葬り去ることではなく、生まれ変わらせることだった。だから彼は小明がいつまで経っても起き上がらないことに混乱する。小明はすぐにでも生まれ変わって彼とともに生きていくはずだった。事件を聞いた小馬は、小四が唯一の友達だったのに、と言って泣いた。彼もまた自分がすべてを失ったと感じた。

人々は、子どもたちは、時代のなかで多くのものを失った。彼らは新たなる希望を見出すことはできたのだろうか。それはときにプレスリーからの手紙のように突然現れることもあるかもしれない。
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