Inagaquilala

牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 デジタル・リマスター版のInagaquilalaのレビュー・感想・評価

4.4
昨秋、東京国際映画祭で観逃した「4Kレストア・デジタルリマスター版」。そのときは、わりと早めにネット予約にトライしたものの、すぐに席が埋まってしまい、代わりに同時刻に上映していた「黒い牡牛」を観た。

監督のエドワード・ヤンは3時間8分版を決定版と言っていたようなのだが、今回の3時間56分版、観た感じは4時間近くあるとは思えず、2時間超くらいに感じた。たぶん、それほどこの作品の世界に没入していたのだと思う。そういう観る者を引き込む魔力がこの作品にはある。

物語は、夜間高校生の主人公がひとりの少女と出会い、恋心を抱き、最後は永訣に至るまでを描いたものなのだが、その間に、主人公の少年の家族の話、少年が関わる非行グループの抗争の話、そして当時の台湾が置かれた時代背景や政治状況などが、重層的に語られていく。

4時間近い上映時間を要するのも、丁寧にそれらの少年の背後にあるものを描写していくからだ。そして、それらすべてをひっくるめて成り立っているのがこの作品なのだ。

エドワード・ヤンは引きの絵を効果的に使って、主人公の少年の置かれた状況を描写していく。

始まってすぐに登場する撮影所のシーン。映画の撮影が行われているのだが、なにやら監督と女優が諍いをしている。カメラが引いていくと、撮影スタジオの天井裏から下を見ている主人公の少年とその級友の姿が映し出される。実は彼らが通う高校の隣が撮影所で、ふたりは無断で侵入していたのだ。

主人公はそのとき撮影所から懐中電灯を失敬していくのだが、これが彼が以後、世の中を覗いてくいく光源になるという設定なのだ(と自分は思った)。

ラスト近く、この懐中電灯はまた撮影所に戻されることになるが、「光」を失った少年は悲劇への疾走を始める(と自分は考えた)。

そして、この光に対して、闇も作品の中では対比的に描かれる。非行グルーブの出入りのシーンは、停電の闇の中で行われるし、主人公が想像をめぐらす寝所もまた暗い押し入れの中なのだ(この押し入れの中から家の茶の間を眺めるカットも印象的だ)。

音楽もなかなか効果的で「潮来笠」のメロディーで日本を想起させたり、激しい暴力シーンの後にエルビス・プレスリーの「Don't Be Cruel」が演奏されたり、なかなか心憎い選曲だ。

なにしろ4時間にも及び作品なのだが、ひとつたりとも気の抜いたシーンはない。できれば、もう一度観て、もっといろいろ確かめたいことはあるのだが、そう思わせるほど、この作品には語るべき魅力が詰まっている。映画史に残る傑作と評されるのももっとも。

「ボーイ・ミーツ・ガール」のかたちを借りた、1960年台湾の叙事詩。「助ける? 私を変えたいのね。この社会と同じ。何も変わらないのよ」ヒロインが最後に吐く言葉が重い。
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