YasujiOshiba

エイリアン3 完全版のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

エイリアン3 完全版(1992年製作の映画)
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日曜日の気晴らし映画は、エイリアンボックスからの3本目。これも完全版を選択、公開版と違うところを表示させながら鑑賞。なんだかずっと表示が点いている感じ、印象も違う。

訳のわからない映画だったという記憶だが、たいして尺も違わないのに、なんだかすっきり。それでもまあ、犬だったのが牛になってたり、ほんとうは羊だったとか言われると、シリーズ3本目の現場の混乱ぶりがよくわかる。今だから言えるのだろうけど、このカオスのなかでフィンチャーはそこそこ個性を発揮。

なんとってもこの作品は、男だけの監獄映画であり、キリストの復活を説く牧師に導かれるセクトの映画。そんな抑圧された欲望の滴りと湿気のなかに投げ込まれたリプリーは、丸坊主にされ、女性の個性を消されながらも、決して消えることのない性のスティグマを生きることになる。

いっしょに見たなぎちゃん曰く。みんな坊主で区別が付かないと心配したけど、区別かなくてもいい話じゃん。うん、たしかにそうだ。個性は必要ない。むしろ、個性を殺されたなかに立ちがる欲望の運動、それがこの作品の主題なのだろう。

だから個性的な登場人物はさっさと消えてゆく。医師役のチャールズ・ダンスなんて、秘密が打ち明ける前にさっさと連れ去れてしまうし、刑務所長を演じたイギリス人の個性派俳優ブライアン・グローバーなんて、さすがに元プロレスラーだけあって、なかなかの面構えなんだけど、ちらりと知性的な眼差しが光っていたんだけど、やはり持ってゆかれちゃう。

こうして残ったリプリーは、いつの間にか本来の性の輝き取り戻し始める。注意すべきは、人間の女性としての性ではないということ。それは、再びギーガーがデザインしなおしたという、滴るようなエイリアンが彼女の頬にすり寄って、喰らいつくことなく、まるで慈しむようにも見える反応をするところに、その輝きの源泉がある。そこが怖いところ。

ともかくも、輝きを取り戻したリプリー。いつのまにか囚人たちを順わせて、まるで白雪姫のシガニーと7人の小人。もちろん小人たちにはそれぞれ名前があって、その名前ていどには個性的なのだけど、結局はみんなまとめて小人たちでしかない。それでもシガニー姫、そんな彼らの力を借りて、ついに悪い奴らに泡を吹かせるわけだ。

悪い奴らは、エイリアンの原初的で圧倒的な力をコントロールしたい。そうはリプリーが許さない。恐怖そのものであり、憎むべき対象でありがら、いつの間にか自らの体の中に孕むことになったあのエンブリオ(それは寄生というよりもむしろ受胎されるもの!)、それをまるで慈しむように自らの奥に抱え込んだまま、十字架に貼り付けられたような姿の後ろ飛び込みを、あの灼熱の溶鉱炉のなかへと決める。そこはさすがに、かっこいい。まさに女キリスト。だからこそ復活がある。

次はジャン=ピエール・ジュネの『エイリアン4』。いやあ、なかなか楽しみがいのあるボックスだ。
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