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After 10 Years
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After 10 Yearsの作品紹介

After 10 Yearsのあらすじ

写真家ホンマタカシによる初の長編ドキュメンタリー。2004年12月スマトラ島沖地震の津波によって、甚大な被害を被ったホテルの10周年追悼式典までの1週間を追う。10年の時を経たひとつの出来事が、人々の記憶の中でどのように変容し、立ち現れるか、静謐な映像で写しとられていく。舞台となる海に面した美しいリゾートホテルは、スリランカの建築家ジェフリー・バワの傑作Heritance Ahungalla Hotel。

After 10 Yearsの監督

ホンマタカシ

原題
製作年
2016年
上映時間
101分

『After 10 Years』に投稿された感想・評価

まず映像の繋げ方に驚いた。定点で撮った映像が繰り返し繰り返し流れる。面白いのは、例えば人間がカットに入り込んだ瞬間に切り替えられていたことだ。
たいがい映画はカットの切り替えについて、なるべく自然になるように注意を払っており、そのおかげで僕らは意識しなければ「一本の映画」を見た気になる。この一本という映画の数え方がまた面白くて、道のようにそれは線である。
ところがこの映画では、やってきた人物に視線を送った瞬間にカットが切り替わることが多々ある。このとき僕は否応なしにカットが切り替わったことを突きつけられる。まだ頭は次のカットに追いつかず、頭の中で前の映像が続けて流れている。しかも切り替わった後のカットは全く同じ構図のカットであり、そのため頭の中で映像が次々と重奏する。これを乱暴といって片付ける人もいるかもしれない。
こんなムチャクチャなことをしても変わらないものがある。僕にとっては、そういう極めてシンプルなもの?こと?かたち?の核心は、重奏する映像に活性化された意識によって、ようやくなんとか浮かび上がってくるものだった。貴重な体験をした。

徐々にいくつかインタビュー映像が入るなど、人間の方へ焦点が移る。ここでは単に津波の被害の大きさ・脅威を述べているのではなかった。それを示したいなら、「あの日はこんな風に大変だった」という一言を切り取って持って来ればいいし、そういうドキュメンタリーは多い。それらとちがうのは、なるべく味付けをせず、あるがままをもってこられたような印象である。まるで「ホンマタカシという人が十年目のここにいて、こういうものを見て、こういう人と話しました」とでもいうような。それがとても丁寧に組織されているために、僕たちは現実に対峙できる。
僕は特に宗教と人というテーマで切り取って観た。まだまったく咀嚼が足りないなと思うのでこれについては書かないことにする。この映画には、特にひとりひとり好きに観るように仕向ける巧みな仕掛けがいくつもあったように思う。それは言外の領域との格闘だった。

ホンマタカシは映画の道を安全に送り届けてくれるアテンダントでは決してない。僕たちに映像と対峙し、格闘して、恐ろしいエネルギーを払ってモノを見ることを強いる。それを怠っては、やや退屈な映像群かもしれない。
東京造形大主催「今の時代のニュードキュメンタリー展2019」にて。ホンマタカシ氏と西澤立衛氏のアフタートークあり

スマトラ沖地震で津波被害を受けたスリランカのホテルの10年後、追悼式典の前後がおさめられている。
ホテルの敷地をホウキで掃いたり、白い床をデッキブラシで磨くスタッフたちを延々と撮るさまが後になっても頭に浮かぶ。スタッフこんなにたくさん居なくていいんじゃないか(でもこうやって地元の雇用を支えてるのか)とか、見たことのないホウキの形だなとか、落ち葉の集め方が人によってまたは日にちによって違うこと、などを、観ながらぼんやり思うのだ。津波の10年後であるその時も、曇天のもと、ジェフリー・バワの設計によるホテルは明るいリゾートといった雰囲気は無い。

『たのしい写真 3 ワークショップ篇』(平凡社) ホンマタカシ氏と諏訪敦彦監督の対談で、週刊新潮の仕事で福島県いわき市へ行き女子高生を白バックの前で撮って帰ってきたら「なんで瓦礫の前で撮ってこないんだ」と編集長に怒られたというエピソードがある。ホンマタカシは「伝えるメディア側のステレオタイプというか、物事をわかりやすくさせようとする力のすごさを感じましたね。」と語っている。

ドキュメンタリーであるかフィクションであるかに関わらず、そこには作為がある。報道なんかも同じだろう。例えばインタビューシーンでその場に打ち捨てられたモノをアップで撮りインサートにすると意味が深まるように見えるモンタージュとか。定点でずっと同じ顔が喋ってるだけだと見る人は飽きる、または部分的な映像上のノイズを回避するという意図も働き、効果的かつわかりやすい常套的な「技術」となる。

そのことによってに失われるもの、置き去りにされるもの。「映像上のノイズ」も、そうじゃなく捉えること。
そしてリュミエール兄弟『港を離れる小舟』でダイ・ヴォーンをして指摘された「映像の自生性」について。
また同著でウィリアム・エグルストンのニューカラーを追究するワークショップがあるが、ニューカラーでキーとしているのは「中心が無い」ということ。
ニュードキュメンタリーには技術を超えた、偶発性も取り込んだ(または偶発性も待たない)、ゆるやかな自律があるのではないか。
質の悪いコーヒー飲んでから観たってのもあるんだけど、感動しちゃったな……