ぱた

ハウス・ジャック・ビルトのぱたのネタバレレビュー・内容・結末

ハウス・ジャック・ビルト(2018年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

自己愛に溢れた独白劇。

サイコパスのシリアルキラーが独特の美意識をもとに死体で家を建てる話をサスペンススリラー風に描く映画かなと思って鑑賞したのですが、少し印象が違っていました。どちらかと言えば、自己愛性パーソナリティ障害の男性が自己愛着行動を通して、自己同一性(家)を我流で構築しようとして罪を重ねる憐れさを描いているような印象でした。

私は人の心理には明るくないので殆ど妄想になってしまうのですが、ジャックの持つ羞恥心や自尊心、強迫観念、認知バイアスでいう過度のダニング・クルーガー効果を体現している言動を見ていると、自分を特別だと思いたかった人のように見えてしまうんですよね。誰かをモチーフにしているなら、外野が何を言うのかと、とても失礼な話ではあるのですが。

作中のジャックの犯行はお世辞にも知的とは言えませんし、殆ど衝動的なものであり、緻密とは言えない仕上がりです。教養があるのでそれっぽく詭弁を述べているだけに過ぎないように見えます。しかしながら、その言動からするに彼はずっとハイクラスに自分を置いているんですよね。そうでなければMr.洗練などという名を名乗ることは出来ないでしょう。一種の特別性や優位性を自分に付加することで快感を得ているわけです。殺人自体を目的としているわけでなく、その先の芸術を求めているという自己定義におぞましい程の自己陶酔を見て戦きます。つまりは、アートに心酔しているのでなくアートを語る自分に心酔しているのです。

また、標的の選択も一見無作為の人間なのですが基本的には自分の優位性を揺るがした人物に対して衝動的に犯行を行っているのではないかと思います。「そんな度胸はない」と自分を下に見た女性を殺し、不審人物として疑いの目を向けられる自分を他人に晒した女性を殺し、自分の中の執着心を呼び起こさせる女性を殺し、建築士ではなく技師の道を選ばせたジャックの母親のように、子供の意思に鈍感な母親を殺す、といった風に。家族を狩る時子供から殺すのは、ある種の自己投影かなと思いました。母親を狩れば、子は生きられない。ならば、母親から殺せばいいのですが、小さく弱いものを先に殺すのです。自らは猟銃を持ち相手は丸腰で抗う力もないという圧倒的に優位な位置にいて、尚且つ、全てを狩るつもりならその行動は非合理的なのにも関わらず、です。「怒りん坊」への自己投影だったのでしょう。そして、その繰り返しのなかで徐々に麻痺していき、本当の意味で無作為に人を殺すようになっていったのでしょうね。

私は結構単純な頭をしているので、街灯と影の喩えは素直に腑に落ちてしまいました。作中、ヴァージはそれはどんな中毒にも当てはまる、理由にならないと切り捨てるわけですが正しくそうなんだろうと思いました。街灯の光が殺人衝動なら、殺人を犯した瞬間だけは「特別である」自己を肯定できる。しかし、その感覚が薄れるにつれ認めたくない普遍的な自分の存在を感じ、それを拭い去るためにまた人を殺す。躍起になって自己同一性を保とうとしているという姿に重なりました。

第5のエピソードでは、警察に追い詰められたジャックに、自分の材料で家を作るのだとヴァージは言います。彼は自分の持てる材料で漸く家を完成させます。つまり、ジャックは死体というこれまでの自己の愛着行動の成れの果てをもって、自分の家=アイデンティティを確立したのではないでしょうか。しかし、それすらも幻影に過ぎないというのが悲しいところですね。恐らく出来上がった死体の家を見つめているジャックは既に銃弾に倒れていて、あれは死の間際に見た、自分の成し得た物の虚像にすぎない。そもそも、限定的な要素で構成された自我など仮初めでしかなく、自己同一性の確立なんて出来ていないのです。

それを踏まえると、ダンテよろしくヴァージに導かれ、ついには地獄の底へと身を落とすという結末は、行きすぎた自己愛は身を滅ぼすといった意味にも取れますし、ある種の普遍的な啓示にも思えました。自己同一性の確立というのは人であれば誰しもが通る課題であり、特別な存在でありたいと願う感情も誰もが持ち得る物だと思います。少しの踏み外しで、誰もが逃れることの出来ない負のスパイラルに飲み込まれ得る、また、その先は言い様のない苦しみが待っているという、至極当たり前な恐怖を突きつけられた気持ちになりました。
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