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ファースト・マンのはたのレビュー・感想・評価

ファースト・マン(2018年製作の映画)
3.5
2023年現在のデミアン・チャゼルのキャリアを鑑みると、「ファーストマン」は嵐の前の静けさと言うべき一本だ。

この映画は実話、宇宙というヒットしやすいトピックを主題にしながらも、POV、ズームイン、手持ちカメラなどトリッキーなカメラワークを駆使して熱狂を求める観客を困惑の渦へと放り込んでいく。かすかに混じる聞きなれたフレーズに「ラ・ラ・ランド」や「バビロン」デミアン・チャゼルの雰囲気を読み取れるが基本的にBGMも抑え気味だ。

だが、主人公ニールが訓練をしたり宇宙で作業をするシーンの迫力は凄まじい。カメラは画面いっぱいに苦痛にゆがむニールの顔を映し出し、時折ニールの視点で視界を覆う惨状や、おびただしい数のスイッチをちらつかせる。ニールはターミネーターの如く冷徹なおもむきで、「月面に立つ」という目標のために進み続ける。映画ではその理由を彼の娘、カレンの死に見出している。

近親者の死の克服というテーマは、あらゆる物語で繰り返し描かれてきたものである。極度に緊張を強いる宇宙描写とふわふわした日常描写のコントラストは、テレンス・マリック監督の「ツリー・オブ・ライフ」のそれと似通っている。「ツリー・オブ・ライフ」でも、過去を追想するという形で、主人公が弟の死を乗り越える姿が描かれる(とは言っても、回想がほとんどだが)。回想場面では、弟の死に直結する出来事のほかに、スピリチュアルで現実の域を越えた、ただ美しい風景の映像が突然挿入される。これは人間の操作の域を越えた世界に、癒しを求めようとするテレンス・マリック独自の作風とされているが「ファーストマン」のつくりもそれと同じものと評せるのではないだろうか。では、ニールは月のどこに癒しを求めたのだろうか。

それはおそらく、月の持つ「死」そのものである。ニールは優秀かつ幸運な人物ゆえに、死に遠い人生を歩んでいる。月面着陸を志す以前も、後も彼の周りの人物は病や事故により次々と命を落とす。ニールはその「死」という事象の持つ意義を理解できなかったのではないだろうか。ニールの言動や行動をじっくり観察すると、彼が「死」に関わる言葉や話題に触れることを意識的に避けていることが分かる。一番明確にそれが分かるのは、月面飛行の直前、妻のジャネットに激怒される場面である。ジャネットは「危険性をしっかり伝えて」とニールに伝えるが、当の本人であるニール自身が「どういうこと?」と言う顔をしている。危険性とは何?危険とは死ぬこと?死ぬとは何?「死」とは何?ニールは「死」についての想像力が欠如している。140分にわたる月への旅は、彼が「死」を理解するまでの長い道のりでもあったのだ。

月面着陸と言う夢を叶えようとするニールの姿勢は「セッション」から「バビロン」に続く、夢へ身をささげようとする主人公たちの姿と重ねてみることができる。だが、先述したように、これはニールが「死」を感じ取るまでの旅を描いた物語である。月面着陸を済ませたニールは、地上に戻りジャネットと再会する。実話ではその後二人は離婚するのだが、そうとは思えないほど穏やかで親密な雰囲気を感じさせる。このラストシーンの意図はまさしく、監督のチャゼル本人の言葉から読み取ることができる。

「バビロン」のインタビューにおいて、チャゼルは仕事とプライベートの両立ができているかと言う質問に対して以下のように答えている。

「大丈夫ですよ(笑)。たしかに、仕事と生活、アートと人生のバランスが取れない人たちの物語が僕は大好きです。なぜなら、目指すものと人生のバランスが取れないと、どちらかを選択する羽目になるから。その選択に魅了されます。それは究極の選択ですから。
 でも、僕自身は私生活では、そうならないように気をつけています。仕事と生活のバランスの取り方も、だんだんうまくなってきました。だから、そんなに心配しないで(笑)」
引用:https://babylon-movie.jp/column/

なんと、チャゼル本人は自分の映画の主人公たちがおかしい理由を「仕事とプライベートのバランスが取れてないから」とほのめかしている。どちらかを優先しろと言うスタンスではないのだ。ニールは娘の死を乗り越えることで、プライベート=家族との絆を取り戻す。だから現実世界でニールが離婚したとしても、「ファーストマン」のニールは離婚しなくていいのである。
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