エクストリームマン

ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューションのエクストリームマンのレビュー・感想・評価

3.2
※ ネタバレしてます。

一つの作品としての完成度合い、および三部作の一作目として致命的な様相を呈していた前作に比して、時間も予算もかけることができたように見受けられる本作。とはいえ、ここに来ての純セカイ系的展開で、テレビ版やその続編、および数多のメディアミックスを相対化する視点の導入は、制作の制約に一部由来しているような気がしないでもない。AOの時から導入された視点ではあるのだけど、過去のテレビシリーズと映画だけでなく、コミカライズ作品までもを取り込む形で「“厄災”エウレカ」が亡きレントンを求めて“現実世界”を滅ぼすプロットに落とし込むのは、やはり純化という方向性だと考えられそうだ。それによってこの手の構造へのフェティシズムに満ちた人々を惹きつけることには一定程度成功した(現に、この構造を褒めそやす感想をチラホラ見かけた)ことだろう。

個人的には、この方向性の相対化はキャラクターを実存の無限背進へと追い込むリスクと常に背中合わせであり、あまり安易に持ち込むべきでないと考えている。いくつもの世界(ここには、時間や次元も含まれる)を繰り返した末に助けた彼や彼女は、ループを実行せざるを得なくなったきっかけの彼や彼女と果たして同一なのだろうか?世界が2つ以上の数に分裂を始めた瞬間からつきまとうこの問題について、多くのループやリープモノ作品は鈍感だ。「分裂しているが、同一」である矛盾を呑み込むことではじめて可能になる世界観なので、当たり前といえば当たり前ではあるけれど。しかし、2つ以上に分裂した世界を厳密に解釈しようとするなら、途端に「すべてがどうでもいい」と受け手は感じるようになってしまうのではないか。

その理由としては、1つの世界内の出来事として語られた物語(この言い方は多世界化した側からの視点を含む)のあらゆる要素が、(その世界内の)現実からあり得る可能性の1つに零落してしまうからだろう。あるいは、すべての並行する世界が全て「ほんとう」であると言い換えても同じである。並行する世界全ての彼や彼女、そして彼や彼女の冒険や悲喜劇が「ほんとう」なのだとしたら、各々の彼や彼女が「各々」であるということを(特に価値という側面から)区別することが出来なくなってしまう。すべてが本当なのであれば、特段の苦労を経て特定の彼や彼女を救うことに意味を与えることは非常に難しい。あるいは、特定の可能性(ある世界の彼や彼女)に固執するのであれば、他の世界に対してどのような働きかけを行ったところで、特定の可能性それ自体に起きた出来事には何らの影響も与えることは出来ないはずだ。

たとえば多世界化と一見似ている「これは夢か現か?」というテーマが意味あるものになるためには、夢と現の間に価値的な差があると信じられている必要がある。夢の100ターレルと現実の100ターレルに差がなくとも、概念や記述からは零れ落ちる現実性(それは概念化された現実性だ)の有無に人は価値的な差異を感じるのだから。そして、オチとしての「全ては夢だったのだ」には、大まかに分けて「悪夢のような出来事が夢でよかった(=現実でなくてよかった)」と「素晴らしい出来事は、しかし夢でしかなかった(=現実は受け入れ難い苦痛に満ちている)」という一見真逆のベクトルを持った2つのパターンが有り得る。しかし実際のところ、この2つは帰ってくるべき場所として予め用意(想定)された「現実」を基盤にしているという意味で全く同質だ。夢や現実の内容をどのように評価するかに関わらず、両者はその前段で現実を確固とした足場として一歩を踏み出しているのだから。したがって、夢と現実を行き来する(あるいは夢か現実か区別がつかない!)といったようなタイプの作品は、多世界的であるように見えるものの、多世界化した世界観の孕む相対性からは、(帰るべき)現実を基本とした重力、つまり価値比重(とその逆転の可能性)の差によって免れている。

エウレカがただひとつの”正解”へ辿り着くために「やり直した」世界=これまでのシリーズとそのメディアミックス作品だったという本作の設定は、形態としては「夢」のようでありつつ、実態としては相対化された世界、並行世界モノと呼べるだろう。たとえ、それぞれの世界を都度捨ててきているとしても、である。本質的にこの相対化された世界という構造を維持しつつも、視点を石井・風花・アネモネ(小清水亜美)とすることで、本作は「現実性」の重力方向を下へ、即ち本作のアネモネが暮らす世界へと向けている。そういう意味で、誠実さがないとは言えないのだが、とはいえ本作を鑑賞する人間の殆どが過去作のファンである(偏見かもしれない)ことを踏まえるのなら、テレビシリーズやコミカライズが失敗の断片として登場することは、あまり快い体験ではないし、先に述べた通り「可能性の1つに零落」することによる価値の毀損からは免れ得ない。この辺は次作の持って行き方によって、まだなんとかなる余地がある…のだろうか。

また、構造云々とは関係ない部分についての苦言としては、たとえばテレビシリーズの映像をアネモネの夢体験として出すのであれば、せめて表情を描き直す(石井・風花・アネモネの顔にする)といったようなことをしなければ辻褄が合わないのではないかとか、「魔女」としてのエウレカがそこまで振り切れていない(アネモネにちょっと意地悪なことを言う程度。まぁ、京田知己はエウレカをそこまで変質させることはできないのかもしれない)とか、デューイ全般とか、団地ともおみたいなCGパートとか、言いたいことは山のようにある。とはいえ、吉田健一氏の描いた「父に肩車されたアネモネ」の写真がAOの時のエウレカの写真と同様に一枚絵としてどこまでも素晴らしかったので、それが観られただけで、個人的には満足してしまった感もあるのだけど。