映画漬廃人伊波興一

夜の浜辺でひとりの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

夜の浜辺でひとり(2016年製作の映画)
4.6
全ての理由はただひとつ。彼がホン・サンスだから

ホン・サンス
「夜の浜辺でひとり」

どうやら2021年の四半期の私にとって映画を観る、とはホン・サンスを観る、と同じ意味として春を迎える事になりそうです。

ひとりの画家が、佇む女性モデルを前にしてイーゼルに絵筆を走らせるように、ひとりの映画監督が、波打つ海へ歩いていく女優の姿をフィルムにおさめた「夜の浜辺でひとり」という映画は、第67回ベルリン国際映画祭で主演女優賞をキム・ミニが受賞しています。

もちろんこの素晴らしい映画そのものが何故、最高賞を逃したか?などと問いたいわけではありません。

何しろことはホン・サンスに関わる問題なのです。むしろ、国際映画祭の賞の行方など取るに足らない些細な問題です、と申し上げたい。

更に言えば、観た方なら誰もが気になる不規則に登場した正体不明の男の存在。

あの男は一体何者で、何のメタファーか?などと頭を傾げるには及びません。

何より大切なのは、ここで演じられているのは、監督と女優、そして映画そのものとの稀有な遭遇であるという事実です。

キム・ミニ演じる劇中のヒロイン(女優ヨンヒ)がかつて不倫に落ちた映画監督との再会を求める。いわば待つ者の勝負。

映画作家ホン・サンスも、この(女優ヨンヒ)も、時間を耐える術を心得ている点では、それぞれがひけを取らない根気の良さに恵まれているようです。

だがそこで争われるのは迅速さではなく、緩やかさに尽きます。

映画作家ホン・サンスは、その愛するキム・ミニの表情を感知できないほど緩やかな持続を巡って、季節と月日の深まりと共に萌芽からゆっくり熟成していくさまをフィルムに定着させていきます。

だから私たちはただ、「夜の浜辺でひとり」を勝敗の概念を超えた緩やかな遭遇の記録として観ればよいのです。

この不思議な映画の舞台は前半後半に分かれたドイツハンブルクと韓国江陵(カンヌン)に設定されています。

どちらの季節も、彼らの着ている服装から極寒の冬とは言えないまでも明らかに日差しの翳りが早々と訪れる晩秋あたりの気がします。

2016年に韓国で実際に発覚したホン・サンス監督とキム・ミニとの不倫騒動が背景にある以上、否が応にも自伝として出発しているかに見えますが、ホン・サンスはキム・ミニと最も好ましい距離を測りながら、いかなる性急さも認められない、なだらかな身振りとリズムでキャメラを向けているのみです。

表情の変化を律儀に刻みながら1日の深まりを生きる、そんな時間とともに、識別不能なフィクションの表情を帯びてきます。

例えば(女優ヨンヒ)が浜辺を歩く。
横たわったまま夢か現(うつつ)か定かでない世界でかつての不倫相手だった映画監督と再会したりする。

それらの場面は、相米慎二の「お引越し」の京都鴨川のほとりにて、言葉や肉体の表現を超越したレンコ(田畑智子)が、谷間の窪地からこんこんと泉が湧きあがるような勢いで、少女から女を自覚した時のように、「夜の浜辺でひとり」の場面は、観ている私たちに凍結された時間と成熟の瞬間を、特権的なものとして約束してくれるのです。

全てにおいて現実の不倫騒動とオーバーラップする、虚実ないまぜのような「夜の浜辺でひとり」ですが、もしかしたら場面のひとつひとつが、ソン・サンスの周到な計算ではなく、ふとした予感にそそのされた即興のような気どりのなさで撮られたものかもしれない、という気さえしてきます。

描かれる世界の背後に拡がる社会的な現実を象徴するような事態の推移を巧みに画面に刻み、観客の時代風俗へ織り込む共犯的な才人が多い韓流ドラマ、韓国映画界では、ホン・サンスの映画はあまり歓迎されてないのかもしれません。

ですがホン・サンスは間違いなくアジア圏のみならず世界でも貴重なくらい独創的だし、徹底的に孤立した映画作家です。

5年先、10年先、30年先には必ず後世の映画人たちの大切な手本になっているに違いない、と断言します。

その理由は色々ありますが今はただ、彼がホン・サンスだから、とのみ述べておきます。