きゃんちょめ

泣いた赤おにのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

泣いた赤おに(1964年製作の映画)
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【「戸に手をかけて顔を押し付けて泣く」】

「山の中に、一人の赤鬼が住んでいました。赤鬼は、人間たちとも仲良くしたいと考えて、自分の家の前に、

「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます。」

と書いた、立て札を立てました。

けれども、人間は疑って、誰一人遊びにきませんでした。赤鬼は悲しみ、信用してもらえないことをくやしがり、おしまいには腹を立てて、立て札を引き抜いてしまいました。

そこへ、友達の青鬼が訪ねて来ました。青鬼は、わけを聞いて、赤鬼のために次のようなことを考えてやりました。

青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。
そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。
そうすれば、人間たちにも、赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう、と言うのでした。

しかし、それでは青鬼にすまない、としぶる赤鬼を、青鬼は、無理やり引っ張って、村へ出かけて行きました。

計画は成功して、村の人たちは、安心して赤鬼のところへ遊びにくるようになりました。毎日、毎日、村から山へ、三人、五人と連れ立って、出かけて来ました。こうして、赤鬼には人間の友達ができました。赤鬼は、とても喜びました。しかし、日がたつにつれて、気になってくることがありました。それは、あの日から訪ねて来なくなった、青鬼のことでした。

ある日、赤鬼は、青鬼の家を訪ねてみました。青鬼の家は、戸が、かたく、しまっていました。ふと、気がつくと、戸のわきには、貼り紙がしてありました。そして、それに、何か、字が書かれていました。

「あかおにくん、

にんげんたちとは どこまでも なかよく まじめに つきあって、たのしく くらして いって ください。

ぼくは、しばらく きみには お目に かかりません。このまま きみと つきあいをつづけていけば、にんげんは、きみを うたがう ことが ないともかぎりません。
うすきみわるく おもわないでも ありません。
それでは まことに つまらない。
そう かんがえて、ぼくは これから たびに でる ことに しました。ながい ながい たびに なるかも しれません。
けれども、ぼくは いつでも きみを わすれますまい。どこかで またも あう 日が あるかも しれません。さようなら。
きみ、からだを だいじにして ください。

どこまでも きみの ともだち
          あおおに 」

赤鬼は、だまって、それを読みました。二度も三度も読みました。戸に手をかけて顔を押し付け、しくしくと、なみだを流して泣きました。 」

【俺の考察】

⑴俺がこれを読んで、まず真っ先に感じた違和感なのだが、最後の場面だけ、赤鬼の泣き方があまりにもリアル過ぎるのである。ここがあまりに悲痛なのである。この数行だけ、リアリティラインが突如として変わったかのように読めるのだ。おそらく、人が具体的に泣くときは、大声を出して喚いたりはせずに、おそらくこのような泣き方をするのだろう。「戸に手をかけて顔を押し付けて泣く」とあるが、このような泣き方を人にさせるものこそ、本当の悲しみではなかったか。人間の友達などを数名得たくらいでは、とうてい代補しえないような深い悲しみがここにあるのだ。

⑵作者の浜田広介(1893-1973)は、いったい何が言いたかったのか。①疑いによって、差別は存続しているということが言いたかったのか。それとも、②敵にその仲間を裏切らせることによって初めて異種間の信頼は成る、という悲しい構造の指摘がしたかったのか。それとも、③不器用過ぎる男性的な優しさの存在が言いたかったのか。それとも、④楽しい日々の背後にかすかに通低音として鳴っているような後ろめたさ、つまり、この楽しい平和的日々をまさに可能にした、過去の暴力的密約の隠蔽の後ろめたさの感覚を言いたかったのか。それとも、⑤最も大切な日常の持ち物、既に持っている宝物を失うということなくしては、ずっと望んでいた非日常のものを手に入れることはできないという悲しい構造の存在を指摘したかったのだろうか。あるいは上記の全てなのか。

⑶赤鬼が人間世界に包摂されるための方法として、青鬼をその犠牲としないような、別の方法があったのではないのか。

⑷赤鬼はこのあとどうするべきなのだろうか。青鬼を探しに旅立つのが正解なのか、それとも、青鬼の最後の望みの通り、人間たちと平和に暮らすことが正解なのだろうか。しかしそのような「後ろめたい平和」は果たして平和の名に値するのだろうか。

⑸青鬼は何がしたかったのだろうか。青鬼はなぜ無理矢理にでも、赤鬼を村での戦闘芝居に連れて行ったのか。もしかしたら、青鬼は赤鬼を愛していたのではないのか。青鬼が最後、旅に出たのは「人間に赤鬼が疑われないためだ」というのは本当に本当なのか。むしろ、人間のコミュニティに包摂してもらうことを半ば諦めかけていた赤鬼を人間たちの村へと向かわせたのが、青鬼の最後のひとおしだったとすれば、青鬼は赤鬼と離れようとしていたのであり、それは青鬼が赤鬼を愛してしまったからではないのか。そういう解釈はあまりにも読み込み過ぎだろうか。「しかし、それでは青鬼にすまない、としぶる赤鬼を、青鬼は、無理やり引っ張って、村へ出かけて行きました。」と書いてあるが、青鬼は「これ以上赤鬼のことを愛してはならない」と思ったから無理やり、離れようとしていたのではないだろうか。赤鬼の最後の落涙は、青鬼が自分を愛していたことに、赤鬼がついに気づいてしまったことからくる、落涙なのではないか。
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