アッバス・キアロスタミには大雑把に分けて2種類の映画がある。一つは少年たちの眼差しからイランの現状や在り方を問題提起した児童映画。もう一つはとりあえず車に乗った大人が、当初の目的を逸脱しながら、クライマックスへと向かうサスペンス映画である。ある自殺志願者の男が、自分の死の瞬間を最後に看取る人間を探している。久しぶりに振り返ると、ホアキン・フェニックスのようなホマユン・エルシャディという主人公の男が、ひたすら誰かを物色している。誰でも良いわけではない。お金に困っているかこちら側の頼みを聞いてくれる人間か、もっと言うと車に同乗してくれる人間なのかどうか?この3点の条件を満たす人間を車の窓から物色している。先進国においては、自殺志願者は一人で勝手に死ぬことが多い。その上で何通もの遺書を残す人間がいたり、遺書さえ残さない者もいる。自分が自殺したことを看取れというのはあまりにも無茶な話であるが、宗教的な理由から、火葬よりも土葬を好むというのは理解出来る。キリスト教徒やイスラム教徒の多い国では、今でも土葬がスタンダードである。今作の中でも主人公が「土は素晴らしい」と語る場面がある。それに対して土は人間が還る場所だと返す場面があるが、その時点では自殺を思いとどまろうとはしない。
主人公の男は、3人の男を助手席に乗せる。1人目は農民出身のクルド人の若い兵士、2人目は採掘場の警備担当者の友人であるアフガニスタンの神学生、3人目は博物館でうずらの研究をしているトルコ人の老人である。彼ら3人に共通するのは、主人公のようにイラン人ではないこと。そしてそれぞれの職業で主人公よりも死が身近にあるということである。最初の2人との対話の中で主人公は何度も失望しながら、最終的には老人の言葉に心動かされるのだが、実はこの3人と主人公のホマユン・エルシャディは一度も顔を合わせていない。映画の中で執拗に繰り返される運転席から助手席を見るショットは、実は監督であるキアロスタミの3人への尋問だという。3人を車に乗せ、監督自らが尋問したショットと、自殺志願者の男が話しかけるショットを交互にモンタージュし、リアリズム溢れる言い合いが成立しているように見せかけて、実は用意周到に仕掛けられたキアロスタミの罠なのである。しかし今作ではもっともらしい嘘が、必ずしも興醒めするわけではない。生を突き詰めれば死が生まれ、死を突き詰めれば生がそこには生まれる。最初は貧困の中で物乞いするような人間ばかりだった車窓の風景が、トルコ人の老人に説得されてから、若いカップルや未来のある子供たちに変わる時、映画が進むべき道は自ずと決まって来る。