Inagaquilala

ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で/ネリー 世界と寝た女のInagaquilalaのレビュー・感想・評価

3.5
監督のアンヌ・エモン自身が「彼女(ネリー・アルカン)の小説と人生を合わせた少し不思議な映画」と語っている通り、この作品の観賞はけっして一筋縄ではいかない。まず小説を書いている主人公がいて、その主人公が過去を振り返る回想場面が入る。そして、その間に、彼女がいま書いている、これまで書いてきた作品の映像が挟み込まれる。それらは何の断りもなく並べられていくので、油断する物語の流れからは取り残される。いま流れている映像がどんな場面であるかは、衣装や化粧やシチュエーションから微妙に読み取っていかなければならない。かなり観客が理解をするのには負担を強いる作品だ。

この「不思議な映画」が成功しているかいないかを問われれば、自分は後者であると答えるだろう。監督は栄光と不幸を合わせ持った悲劇の女性作家に託して、自分を表現しようと試みたのだと思われるが、あまりに思いが強すぎて、表現が空回りしているように感じた。自分の観賞力のなさかもしれないが、同じネリー・アルカンの小説と人生を並べて描くにしろ、それを串刺しにする映像表現の企みが欲しかった気がする。確かに映像は美しく、その世界に魅惑されてしまうのだが、かなり重いテーマを扱っているがゆえの知的なアプローチも欲しかった。

作品で描かれているネリー・アルカンは26歳のときに、自らの高級エスコートガールの経験をもとにして書いた小説で、彗星のごとくデビュー。その容姿と振る舞いでメディアからは文学界のマリリン・モンローとも称された。とはいえ、生前の作品発表はわずかに3作、デビュー作ほどの成功は果たせず、36歳で自殺している(死後、1作品が刊行される)。実生活と作品世界の乖離につねに悩み、センセーショナルな外面とはことなる繊細なで壊れやすい内面を持っていた。

彼女がなぜ36歳で自殺を遂げたのか。作品はその謎に迫っているようにも見えるが、残念ながらこの作品はそのようなミステリータッチで撮られたものではなく、実際の死も、ナレーションで伝えられるのみだ。作品中における死のイメージ、あるいは場面はすべて彼女が執筆している作品の中でのこと、そのあたりが理解をするのには少し困難なものになっている。自分的な解釈では、彼女はまた原点であるエスコートガールに戻ってみるが、それでも答えを得られず、さらに深淵を覗き込んでしまうと理解した。

冒頭に幼い主人公が歌う、メリー・ポプキンでヒットした「Those Were the Days (邦題は「悲しき天使」、作品では「Le Temps des fleurs」とフランス語表記)」が使用されているが(唐十郎の「少女仮面」のようだ)、この物悲しい調べのトーンが作品を通じて貫いている。作中では重要なシーンで、もう一度このメロディーが登場するのだが、それは観て確認ください。
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