大島育宙

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3の大島育宙のレビュー・感想・評価

4.0
爽快でわかりやすくて優しいのに、
残酷でもふざけてもいる。長いけど仕方ない!

1作目からリアルタイムで体験してきた割にはそこまで思い入れがなかったけど、ロケットにフォーカスしてくれたおかげで遡及的に1,2作目も好きになった。スペースオペラとしての面白さよりも、生物や命そのものへの興味が前面化して、俺がジェームズ・ガンを好きなのはこういうところなんだよな、と改めて認識した。

可愛らしい動物から汚らしい動物まで、
一見グロテスクな有機体も可愛く見せるガンマジック。身体や知的な障害をキャラクターに負わせることが、例えば10年後には明確にアウトになってるかもしれない。ハンディを背景として描くだけでなく、愛嬌やツッコミどころとしても使っている感覚が明らかに他のメジャー監督とは違う。それを差別的だ、露悪的だ、と観る人もいていい。が、私は障害をただ「個性」として美化・均一化したり、見て見ぬ振りするよりも、障害を当事者の芸人が漫談やコントのネタにするように、「その人の一部」として向き合い、ベタベタと触ることが愛着表現であってもよいし、全年齢向けのビッグバジェット映画でそういう視点を我慢できずにまぶしてしまえるだけで、やはりジェームズ・ガンは不正出の逸材だと思えてならない。スースクまでは露悪の人だと思ってたが、今回で露悪とも違うと思った。

身体や知的な障害への興味・愛着の目線は、生育歴や命の誕生そのものにまで及ぶ。監督自身の虐待被害の経験と父への愛憎はずっとガンの映画に通底しているし、もっと言ってしまえば、彼を一時的に失脚させた一連のツイートの内容とも密接不可分である。身体的特徴を笑う感覚、性加害を軽視する感覚、いずれも到底擁護できるものではないし、ネットリテラシーのカケラもないが、発言の元になった根性が変わってないことを今回の映画でちゃんと示した。責任ある立場になったから言わないだけで、あれらの非道徳ジョークツイートの感覚自体は、ガンの中にずっと残るだろう。それでいい。仕方ない。そこまで糺せと言えるほど私の心はピュアでも無差別でもない。差別される者、笑われるもの、虐げられる者を他人にしない。自分も巻き込んで一緒に笑う。その当事者との一体感覚そのものは、万人には理解されなくても、喜劇作家としては逆に、むしろ清廉潔白と言えるくらいの感性だ。ガンのGOTGが観られないのは嫌だったけど、もしディズニーに降板させられて終わりだったとしても「過去の非道徳ジョークで追放されたバカ映画監督〜!」というオチのついたキャリアは、ガンにむしろ似合う。ガンの差別的な表現や発言に世間やそれを受け止めた人のズレがある時は、ガンが自分自身を当たり前に「被差別側の味方だ」と思いすぎているのが原因だと思う。精神性の根っこがどうあろうと、ほとんどの外野から見れば大規模アメコミ映画の監督様は「選ばれた側」「持ってる側」だ。そう見られることを読み込んだ表現ができてない時、持てる側からのいじめに見える。ガンがいくら自分は弱者で負け犬だと思っていたとしても。

ディズニーそのものを連想させる巨大企業との戦いなの含めて、ロケットはガンそのもの。一人一人の観客そのもの。あなたの物語なのよ。わたしの物語なのよ。あなたが私に語るのでも、私があなたに語るのでもなく、一緒に語るのが物語なのよ。身体や脳や出身地の違いをお互いに指差してジロジロ見て、一心同体になってガハハと笑うんだよ。均質化に抗うために、強い奴に潰されないために、バカになって弱いところを突き合って笑うんだよ。同じ音楽を聴きながら、踊りながら。1人で聴いているつもりでも、同じ音楽をみんなで聴いて身を委ねている。