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悪魔の季節のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

悪魔の季節(2018年製作の映画)
4.0
【ラヴ・ディアス版『シェルブールの雨傘』】
ラヴ・ディアス監督作といえば、何気ないフィリピン田舎町の日常を淡々と映し、その中で段々と1970年代マルコス大統領が発令した戒厳令時代の息苦しさが見えてくる作風で一貫している監督だ。観る者にあの時代のフィリピンの生活を追体験させることで、フィリピンが持つ独裁支配の歴史を伝えようとしている。しかしながら、今回の『悪魔の季節』では、ロドリゴ・ドゥテルテ大統領の横暴に憤怒したのだろうか?ラヴ・ディアスの怒りが4時間余すことなく炸裂していた。

ロドリゴ・ドゥテルテとは16歳にして人を刺し殺し、ダバオ市長時代にはダバオ・デス・スクワッド(Davao Death Squads)という自警団を使って犯罪者を片っ端から抹殺していった。そして現在、大統領にまで登り詰めた彼は、世界中の批判をものとはせず、麻薬撲滅の為に超法規的殺人指令で持って犯罪者を皆殺しにしているのだ。BBCの報告に夜と、昨年、麻薬撲滅作戦から警察を除外し麻薬取締局が中心となって活動するようになった。現実に君臨する夜神月として猛威を振るっているドゥテルテ大統領に対する怒りがどのように炸裂したかを書いていく。

ラヴ・ディアス監督作はIMDbによると29本存在している。ブンブンはその中の僅か7本しか観ていないアマチュアなのだが、それでも他のラヴ・ディアス作品とはテイストが全く異なる。それは全編アカペラのミュージカルといった表面的次元に止まることはない。何と言っても《兵士》の描写が180度違う。ラヴ・ディアスには必ずといってもいいほど兵士の横暴が描かれる。しかし、従来の兵士描写は、フィリピン田舎町に兵士が幽霊のようにやってきて、特に説明なく人を殺したり、嫌がらせをする。戒厳令で村にやってきて悪さをするという最低限のフレームで説明し、不条理に現れては消えるを繰り返すのだ。この不条理さが、1970年代、田舎町にまで波及する支配の息苦しさを観客に追体験させる。

ただ、今回は全てセリフで、兵士の立ち位置から役割、どういった存在なのかを説明する。映画において、過度な説明描写はダメダメ映画の烙印を押される典型。ましてや脚本の世界では行間を描くことが美徳とされているのだ。そのタブーを傑作という形で破る為に、《オペラ》という要素を盛り込んだ。オペラにおいては、いかに感情の吐露をドラマチックに描くのかが肝となってくる。後述するが、本作には感情の吐露をドラマチックに描く為に様々な技巧が凝らされており、これにより駄作に陥ることを回避。そして、監督の今まで暗号のように押し殺してきた軍に対する怒りを露骨に描いた。

ギント村の兵士は、村人に対して

俺は兵士だ!
確信が変化をもたらす!

と豪語する。俺たちが村を守っているのだから、村は平和なんだと。だから逆らうなと、銃で村人を脅す。

それに対して村人は、

天国も地球も楽園なんかじゃない
我々人は決して学ばない
我々の人生に確かなものはない
今での幽霊を信じる
ウソがまかり通る

と嘆き、意を決して兵士のアジトに行き、兵士の横暴さを指摘する。《自分が法》のようにならないで、この村を破壊しないでと代表者が言うと、兵士は、

これは合法的仕事だ
法に則った仕事
法律には従うしかない
人も社会も法に従うべき
ナルシソ(村の支配者)もこの村が好きだよ

と綺麗事を言って追い出す。LA LA LA~と軽妙なフレーズからは、綺麗な言葉を言いつつ、横暴冷酷さで村を支配しようとする魂胆が見え隠れし、不気味さが増していく。

このような、従来のラヴ・ディアス映画では観られない、直接的な表現が数多映画に組み込まれている。そして、直接的に描く為に、物語も非常にシンプルになっている。要は『シェルブールの雨傘』における、去った男を待ち焦がれるヒロインのパートにアルジェ戦争でサバイバルしている男のパートを付加した話だ。いつものような、様々な挿話を組み合わせて、4時間以上かけてゆっくり収斂させていく手法を棄てている。

まあ良くも悪くも直接的な描写が多いのだが、やはりラヴ・ディアスは素晴らしかった。

‪ブログ記事:【ネタバレ考察】『悪魔の季節』ラヴ・ディアス版『ラ・ラ・ランド』に籠められた憤怒↓‬
‪https://france-chebunbun.com/2018/11/04/post-17437/
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