hajime363

バーニング 劇場版のhajime363のレビュー・感想・評価

バーニング 劇場版(2018年製作の映画)
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考えれば考えるほど、台詞や所作を思い出すほど、味わいが増すというか…非常に複雑で、如何様にも解釈できるタイプの映画でありつつも、一貫したテーマとモチーフが存在することで明確な問いを観客に投げかけるみたいな (という、抽象的かつ陳腐な言葉で書きましたけど、「とりあえず映画好きだったら観て損はないよ!」と同義であります)

答えを明示せずに解釈は観客に委ねるタイプの作品って、正直苦手でした。結局この監督は何が言いたかったんだろう?みたいな消化不良になりがちで…
この作品は「自分(観客)がそこ(作品)に何を見たい(望んでいる)か?」ということを考えること、が根底にあるが故に、複雑でありながらも“わかりやすい”のだと思う。
それは、物語において作家志望を自称する青年イ・ジョンスが“自分が世の中に対して何を書くべきなのか”について悩んでおり、文章を書くシーンは“ほとんど”描かれないことに表れていると思います。

◆曖昧さ、と実存。
物語冒頭、ジョンスの幼馴染であるヘミは飲み屋で、ミカンを食べるパントマイムを披露する。曰く、パントマイムのコツは「ないものをあるように見せるのではなく、“ない”ことを忘れること」という。

この映画には上記のような“存在の曖昧さ”を想起させるモノやコトが多く盛り込まれている。

例えば、ジョンスはヘミが旅行に行っている間、猫の餌やり頼まれるが肝心の猫は一向にジョンスの前に姿を見せない。だが、翌日には餌が無くなっており、律儀にもペット用トイレには糞がある。
一方で、ジョンスは毎日のように掛かってくる無言電話に悩まされている。ある日、しびれを切らしたジョンスが電話口に怒鳴ると、電話の向こうは生き別れの母であった。今まで曖昧だった存在が急に現実へと浮き上がってくる。(でも、無言電話が全て母であったかどうかは明示されない)

他にも、登場人物たちが語る話はどこか確証が無い話が多い。ヘミが語る「幼い頃、井戸に落ちてジョンスに助けられた話」。現在では井戸も無く、近隣の人に尋ねても井戸についての記憶は人ぞれぞれで曖昧。
(実際に井戸あったことかどうかは明示されないが、ヘミにとっては“そうであること”が事実以上に価値を持つ)
中盤から物語に登場するベンはなんだかよく分からないけれど金持ちであり、物語のターニングポイントとなる彼が打ち明ける趣味の“ビニールハウスを焼くこと”も、メタファーなのかどうかの判別は確証が無い。
(明示されるのは、彼が時折、都会の喧騒を離れて何をするでもなく田舎に赴くということだけ)

これは公式サイトのイントロにも記載があるのでネタバレにはならないと思いますが、後半に差し掛かるくらいでヘミが突然姿を消します。
ヘミと連絡が取れなくなってから、ジョンスは「ベンが本当に趣味で古びたビニールハウスを燃やしているのか?」を確認するという目的で近所のビニールハウスをパトロールするようになる(←近々、ジョンスの家の近所のビニールハウス燃やすってベンに言われた)。
ビニールハウスが焼失していないことは確認出来たのに、虚ろな眼差しでビニールハウスを覗き込むジョンスはヘミを探しているようにも見える(こんなとこにいるはずもないのにってやつですね。山崎まさよしです。)

終盤、ヘミのいない部屋で自慰行為にふけるジョンス(これはヘミが旅行中もやっていた。常習犯。)
部屋の残り香と“差し込む光”が、いなくなった彼女の存在を実存以上に身近に感じさせる。そして、おもむろに何かを書き出すジョンス…

監督はインタビューで“ポエトリー以後、悩んでいた問題”について、以下のように述べています。(https://www.tbsradio.jp/337357 一部抜粋しました)
「どんな映画を作っていくべきか、どのように観客とコミュニケーションを取っていけばいいのか、という映画監督として根本的な問題にぶつかった。最近の映画がシンプルになる一方で、現実世界は非常に複雑になり、とても曖昧模糊なものになっている気がしています。」

個人的な解釈まとめ
“曖昧さ”を積み重ねることで、あくまで自分にとってのという( )付きの“確かさ”を観客の心理に浮かび上がらせる。
それは、ジョンスにとっての彼女以上に彼女の実存を感じさせる何かであり、それらがもたらす心理、行動の変容は観客にも波及(共感)する。

ラストについての解釈は色々あると思いますが、個人的にはジョンスが作品を世に出せたのだと思いたいです(ネタバレしないように言葉を選びました笑)

◆モチーフとしての火
火がたくさん出てきますね、Burningですもんね。

料理使用する火。ジョンスの料理に対するスタンスは粗野で、ステレオタイプな男の自炊!
一方でベンは料理に対し、こだわりを持っており“思うままに創造する行為である”とまで述べています。“趣味”であるビニールハウスを燃やすという行為は無価値なもの(不在と同義)を火によって、存在しないものにするという意味料理と同じロジックにも見える。ベンは実存第一かつ支配したい感じなんですね。金持ちだからそうなのか、そうだから金持ちなのか。

ヘミが披露するアフリカ部族の踊り。直接的に火が出てくるわけでは無いかですが、たき火を前に踊ると言います。
(夕陽を炎に見立てて踊るシーンの美しさたるやもう)
その役割は抽象的で、敢えて言語化するならば自己の存在(概念としての位)を高めるための手段のような…

そして、頻繁に描かれる喫煙シーン。ヘミとジョンスはよく二人でタバコ(ベンと3人の時は大麻)を吸います。ここでの火はコミュニケーションツールの側面が強い。上記2つの火が人により解釈(扱い)の違う火だったのに対して、共通点のような感じ。

ラストシーンの火。解釈により、実存的とも、観念的ともどちらとも取れる笑
個人的には観念的な火であってほしい、

◆蛇足
イ・チャンドン監督の作品は「シークレットサンシャイン」しか観ていないので、過去作観ようとしたらソフト廃盤。この機会にBlu-ray出ないかな~
取り急ぎ、TSUTAYAで取り扱いがありそうなので取り寄せてみます。
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