のりしろ

アダムス・ファミリーののりしろのレビュー・感想・評価

アダムス・ファミリー(2019年製作の映画)
3.3

最近の映画「多様性、サイッコ〜!」
私「はぁ」


原作漫画&初代映画大好きな友人と一緒に観に行ったのに、1ミリも映画の感想語り合う雰囲気にならなかったのが趣深いです。
良くも悪くもアニメでしか表現できない描写は面白いなと感じました。


※ここからは超個人的なグチです
ご理解のある方だけ閲覧ください。






人間の皮を一枚裏返すと出てくる
残酷でへそ曲がりで薄汚く腹黒い本性。

それらは大概の人間にとって到底受け入れ難い代物だが、ヒトの善性と悪性は相補性を持って人間の中に同立しているのが事実である。

故にヒトはその悪性の本性を克己心という檻に閉じ込めて、暴れ出さないよう己に戒めを課している。

本来であればそうして切り離されて封じられるはずの「人間の悪性」を、当然のように放し飼いにして楽しみ、そして愛しているのがアダムスファミリーという“怪物一家”である。

彼らの不気味さと面白さの根源はその「人間の悪性を愛する」という点にあり、悪性を戒めている側の人間にとって、そのありのままの純粋悪は、むしろ羨望に値し、故に魅了されてしまう。

聴衆は彼らの姿を通して、自分の中に潜む「怪物」を観ているのだから、こんなに愛嬌のある「怪物」ならば、好きにならずにはいられないだろう。
私も大好きである。


前置きが長くなりましたが、
今回のアニメ版の主題。

端的に言えば
「アダムスファミリー(人間の悪性)を
多様性として受け入れよう!」
という話でした。

正直に言うと
「何でもかんでも“多様性”で受け入れるのは違うでしょう。」という気持ちです。

善性と悪性は相補性です。
異なるが故に補い合い、存在が許される。
悪を嫌うが故に善が存在し、また逆も然り。
混じり合わないからこそ調和が生まれる自然の節理です。

それを「人間の悪性も“多様性”として受け入れよう!」というのは、いささか不合理のように感じます。
「悪性は克己心をもって制御する」が正しい態度であり、受け入れたらそれはただの“悪”です。

“アダムスファミリー”は“怪物”であり、
他者ができないことを平然とやってのけるからこそ、
“そこにシビれるあこがれるゥ!”なのです。

彼らの不可侵領域に人間が立ち入ってしまったら、アダムスファミリーすら一般化されてしまうではないですか。
何を言っているんだ...?この映画は...
というやや怒りにも似た感情が芽生えました。


とどのつまり、この映画は自分の中にあった既存の“アダムスファミリー”像では太刀打ちできない、“新しい時代のアダムスファミリー”だったのだろうと思います。

物語も表現も、時代の流れに沿って変わっていくもので、とりわけエンターテイメントとして生み出されたものにはそれが色濃く反映されるものでしょう。

私の中にあったアダムスファミリー像も時代とともに消え、多様性社会でみんなに受け入れられてこれからの時代を生きていくことになるのでしょう。

一抹の寂しさを感じるとともに、
彼らの新しいステージにご多幸あらんことを
願うばかりです。

おしまい
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