いののん

ROMA/ローマのいののんのレビュー・感想・評価

ROMA/ローマ(2018年製作の映画)
-
稀代の名作。そうなのかもしれないと、私も思う。奥行きを感じさせる映像がきれい。柔らかな陽光。なんかすごいものが内包されている感じ。横移動のキャメラ。


でも、私には観ている最中から少し、そして観た後も違和感が残っている。この大絶賛されている作品について、それほどでもないという感想を書くのは、気が重いし、気が引ける。でも、自分に正直でありたいな。多分、書いたら書いたで後悔して、きっと落ち込む。でも、書かないでくすぶっているのもイヤだ。臆病でこわがりだけど、書いてみます。(→それで下書きしたまま蔵に入れて、お蔵入りのままにしようか、蔵出ししようか、なんとなくズルズルしていました。)勘違いも甚だしい文章かもしれません。あらかじめあやまりたいです。ごめんなさい。





やっぱりわたしはイエロー(黄色人種)なんだ。
それが、鑑賞後さいしょに浮かんだ言葉で、もしかしたらそれがこの映画に対する、私の違和感の根本なのかもしれないという気がしている。(こんな書き方ではうまく伝わらないですね)


白人で裕福な一家と、そこで家政婦として働くメキシコ人の女性クレオ。その間にある、越えられない壁。抱き合っても、両者の間にある隙間は、混じり合って溶け出したりはしないだろう。彼らは、彼女(クレオ)をわかろうとしているのだろうか。彼らにとって、クレオは、ただの都合の良い人なんじゃないだろうか。


雇用主と使用人。その間にある壁。
終盤の、波打ち際で、彼らはクレオに「好きだ」と告げる。その「好き」とは、なんだろう。クレオが命を助けてくれたからの「好き」であって、もしも彼女が助けられなかったとしたら、それでも彼らは、彼女に抱きついて、彼女を抱きしめて、「好き」と言ったのだろうか。(私はあの場面で泣いたのにもかかわらず。)


無垢(なように感じられる)子ら。子らが、彼女を好きだということはとてもよく伝わってくる。彼女を必要としていることも。この場合、彼らの抱く親愛の情は、母に対する愛情を同じなのだろうか。やはり、そこには雇っているもの/雇われているものの壁があり、その壁の間には、金銭が介在している。


この映画は、両者の間にある壁を際立たせている(ように私には感じられた)。この違和感を突き詰めていってしまうと、イエローだから(サルトル&ボーヴォワール)の話(根本にある差別の話)にまでいってしまうような気がして、そして、そういう僅かに知っているだけの話を持ち出して、無理矢理こじつけようとする私自身に対して、誰よりも私が嫌悪感を抱いてしまう。私はこういう私が嫌だ。なんでそんなこと頭をよぎっちゃったんだろう。


男どもはクソで、じゃあ、これは女性礼賛の映画なのだろうか。クレオと、一家の母との間に、連帯はあったのだろうか。いや、あったのだろう。でも、それも少し危うげだ。女性礼賛だとするならば、これは個としての、「ひとりの女性」としての彼女への礼賛であって、「女性たち」への礼賛ではない。どうして女性たちを分断させたの?そう感じてしまう。


どうしたって私はクレオに肩入れして観る。終盤の、クレオが発する、心情の吐露(終盤で初めて発した吐露だった)に、心を打たれる。私のスコアは全て、クレオに捧げたい。


これは、ある種の贖罪に近いものなのだろうか。あの飛行機に、クレオが乗ることはない。見上げるだけである(見上げることすらしなかったかも)。この映画は、どちらかといえば、のぞき込まないですませたい問題が潜んでいる映画だと感じたのだれど、それはやはり、私自身がひねくれた偏屈な、天邪鬼だからなんだろう。さあ、ここまで書いちゃって、どうする私? それは、レビューのっけたあとできっと自分でわかってくるだろう。
いののん

いののん