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ジョーカーのdojiのレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
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社会が構造として規定する正義=警察が裁くことができない悪に対して、あるべき正義を執行しようとするヴィジランティズム=バットマン、という構図に対して、ジョーカーはそのルール設定そのものをあざわらうように純粋な悪を執行し、社会にそれを感染させる存在だったと思う。それは、「社会」という作り上げられたフィクションからはみ出したなにかが生んだ歪みのメタファーだったと思うし、ジョーカーの存在は起こりうるかもしれない人災だった。その恐怖と、システムとして社会のばかばかしさに身震いを覚えたのが『ダークナイト』だったと思う。

この『ジョーカー』は、あきらかにジョーカーになっていく人間に対して同情的で、2019年の社会というバックグラウンドは、ジョーカーを生んでしまうことにはっきりと理由をつけてしまう。それは、『ダークナイト』で描かれた起こりうるかもしれない恐怖ではなくて、はっきりと事実として存在してきるであろう人間として、ある種の必然性をもってジョーカーの誕生を描いてしまっている。これは、はっきり言ってすごく危険なことだと思う。しかもそれは映画のせいじゃなくて、現実にこれが起こっても不思議じゃなく、実際に起きてしまっている社会のせいだからだ。

それは映画的な快楽としての悪に震える体験ではなくて、ああここまで社会は変わってしまったんだな、という、劇場に出た後の世界への身震いだと思う。この作品は映画的に完璧では決してないし、演出に不満が残る部分はかなり多い。にもかかわらず、社会はこれを絶賛し、おそらくアーサーに共感する観客の方が多いはずだ。しかも結末に贈られる拍手と、ジョーカーという存在の本命である、正義の意味を反転させることの成功は、そっくりそのまま皮肉でもなんでもない現実のことである。このタイミングでこの映画が生まれてしまったことが、これだけの注目を集めたなによりの理由だと思う。

ジャック・ニコルソン、ヒース・レジャーのジョーカーは絶え間ない笑い声とともにジョーカーとして完成する。でも、ホアキン・フェニックスのジョーカーは、笑うことから解放されて、はじめてジョーカーとして完成する。真顔で怒るジョーカーをヒーローとする時代に、いよいよなってしまった。
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