アキラナウェイ

ジョーカーのアキラナウェイのネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

さて。
何から書き出していいのやら。

どの映画に出てもカメレオンの様に変異する、ホアキン・フェニックスが堪らなく好き。

今回のホアキンもまた凄い!!

1秒たりとも目が離せない。
目を離したくない。
瞬きすら惜しい!
目をまん丸くして魅入ってしまった。

「ビューティフル・デイ」でも、母と二人暮らしの孤独な男を演じていたホアキン。しかし、体格はまるで違う。

骨と皮だけの身体を歪め、踊る。
その背中は明らかに異形の者。
あまりの禍々(まがまが)しさに背筋が凍る。

「どんな時も笑顔で」

母の言葉を胸に秘め、
大道芸人として街角で戯(おど)ける。
その男、アーサー・フレック。

青い涙が一筋。
ピエロのアイメイクが溶けて流れる。

凄まじい!!!!

もう、そこにホアキンはいない。
そこにいるのは、懸命に生きているのに、辛く悲しい日常に押し潰されそうになっているアーサーという男。

社会から見放され、自らの出生の謎を知った時、彼はJOKERになる階段を一段、また一段と登っていく。

これは闇堕ちしていく物語ではない。
闇へと登り詰めていく物語だ。

ホアキンの演技だけでも度肝を抜かれるのに、この映画はそれだけでは終わらない。

ロバート・デ・ニーロ演じる大御所のコメディアン、マレー・フランクリン。それは完全なる「キング・オブ・コメディ」のオマージュ。かのルパート・パプキンが、其処にいるかの様な錯覚。これには身震いした!!

そして、何処からが現実で何処からが妄想なのか。
観ている者をも惑わせるトリッキーな脚本は、
観ている人の数だけ解釈の枝葉を生んでいる。

結論として。

僕は全てがJOKEなのでは、と思っている。

マレー・フランクリンが、アーサーの事を番組で取り上げ、彼を「JOKER」と紹介したその時に感じた違和感。

マレー・フランクリンを撃ち殺し、悪のカリスマとして誕生したJOKER。その一連の出来事も、アーサーの妄想なのではないだろうか。

人前で笑ってしまう病気も。
彼なりのタチの悪いJOKEじゃないだろうか。

だから僕は、この映画を観て堕ちたりはしない。
勿論、世の中は腐っていて、人を踏みつけて、笑い者にする奴らで溢れているけれど、だからと言って僕はJOKERにはならない。

鬱屈したその感情は、ホアキンがアーサーを演じ、アーサーがJOKERになった事で、僕らが悪に染まる事がない様に、それは一つの代償行為として、この映画で完結している様に思う。

語弊を恐れずに言えば、アーサーは精神異常者であり、ラストシーンの血に染まった足跡は現実だと思う。究極のサイコパスを描きながら、全てがREALにも見えるし、JOKEにも見える。

万華鏡の様にクルクル変わるこの極彩色の美しい世界を、僕はとことんまで楽しんでしまった。

何度でも観たい。
きっと次はまた別の解釈が生まれる筈。

だから僕はこれを現代における僕らのマスターピースだと信じて疑わない。