『ダークナイト』に心の底まで魅了された身である。
つまり、ヒース・レジャーの演じたジョーカーは頂点。あんな壮絶な演技は誰も超えられないと信じている。
だから『スーサイド・スクワッド』でジャレッド・レトが演じた短髪で歯に入れ墨したジョーカーなど許容出来る訳もない。作品自体はまずまず面白く観れたし、ジャレッド・レトが嫌いな訳では決してない。しかしジョーカーに関してはそうなってしまう。比較論。
今回のホアキン・フェニックス版ジョーカーも映画館で鑑賞するかを迷いまくり、何度も逡巡した。
結局、映画館には行かなかった。ヒース版ジョーカーとの比較論が勝ってしまった。
やっとWOWOWで放送されたので観ることが出来た。
ヒース版ジョーカーのことは頭から消して、別物だと意識して観ることを心掛けた。比較論を念頭に観てしまうと低評価にしかならない。
何もかもが狂ったゴッサム。あの街がジョーカーという怪物を創った。
そういう描き方になっていて安堵した。感謝すらしている。
クリストファー・ノーランが意図的に描かなかった「なぜ彼はジョーカーになったのか」、その前日譚のみにフィーチャーした物語。
独特の「甲高く不快な笑い方」の理由。
大富豪ウェイン家との因縁。
後に宿敵となる、まだ幼いブルースとの邂逅。
『ダークナイト』など他の作品との繋がりがおかしくなる違和感や突出感もない。邪魔されてもないし、邪魔してもいない。見事に1つの物語として成立してる。
演技の話で言えば、ホアキン・フェニックスは、彼が捉えたジョーカーという存在を、いや、ジョーカーになる前のアーサーという男にまとわりついていた不快と不安と不調和の渦を、その感性で演じきり、これはこれでまた一つのスタンダードとして見事に成立させちゃってる。何気に凄いこと。
ヒース・レジャーと比べてウンヌンなんて野暮だよね。そう思わせてくれるほど、時に大胆で大袈裟に、時に微妙で繊細に、ホアキン・フェニックスが体現した狂気は凄まじかった。
異常なほど痩せた肉体もそうだし、甲高く笑う際の何パターンもある表情作りもそう。演者の並大抵ではない気迫。
ホアキン版ジョーカーの続編はできれば観たくない。
描こうと思えば続きは幾らでも描けるのだろうけど、あのジョーカーの時間軸は、あそこで止めたままにして欲しい。
不要な邪念がどうしても混ざる。邪念の源流を辿ると、ヒース・レジャーは凄かったという感嘆に帰結する。
狂気に定義は不要。人は、ただ狂う。
ホアキン・フェニックス版ジョーカーを比較論の俎上に載せたくはない。