KnightsofOdessa

Cantata(英題)のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

Cantata(英題)(1963年製作の映画)
4.0
[ある青年医師の孤独な絶望] 80点

ヤンチョー・ミクローシュの足跡を辿り直す企画第一弾。監督長編二作目。本作品で用いられている独特な長回し、及び自然環境を舞台として再発見したことによってハンガリー映画に新世代の台頭とニューウェーブの開花が到来し、続く10年近くの最盛期を迎えることになるという伝説的な作品。主演はなんと若かりし頃のラティノヴィッツ・ゾルタン!ハンガリーを代表する激渋俳優の一人だ。彼はその後の初期ヤンチョー作品に欠かせない人物となる他、ファーブリ・ゾルタンやフサーリク・ゾルタンといった監督たちのハンガリーを代表するような作品に出続けることになる。

本作品はざっくり三部構成になっている。一つ目は医療ドラマ、二つ目は都会の放浪、三つ目は後のアレゴリカルな作品にも通づる平原の放浪である。主人公はブダペスト郊外の病院に勤めるヤーロムという医師。病院という無機質かつ人工的な空間は歩く回る空間として最適で、十字路曲がったりやベランダを通って戻ってきたりすることで引き伸ばされた時間と会話は後の映画を予感されるような長回しで回収される。既にスタイルは確立されているのだ。そして、長回しはリアル志向の医療ドラマのような展開とも親和性が異常に高い。ヤーロムは70歳を前に復帰すると言った恩師の手術に複雑な思いを感じながら付き添い、不気味なほど静かに終りを迎える。病院の廊下をぶち抜くロングショットで、手術の成功について語るヤーロムとヨロヨロと歩いていく恩師が共存するショットなんか実に素晴らしい後の片鱗が見える。そして、恩師が倒れたのをきっかけに悩み始めたヤーロムごと映画は医療ドラマから離れていき、まるでダネリヤやフツイエフのような同時代のロシア映画のように街へ繰り出して孤独の内に彷徨い出す。"外科医は指揮者と同じだ、孤狼のように振る舞う時代は終わった"と呟いていたヤーロムは、そのまま群れからはぐれた狼のように絶望的な放浪を続ける羽目になるのだ。

街へ繰り出して色々な知人に会いながら絶望と孤独を深めていくのに相反して、友人たちは実に楽しそうに行きているのは、どこかルイ・マル『鬼火』を思い出してしまう。面白いのは友人たちのアヴァンギャルドなフィルム上映会のシーンだろう。ヤーロムは上映会を一人抜け出して酒を煽る。しかし、それよりも鶏肉の塊を川辺に並べ、それにナイフとフォークを突き刺して云々という映像に見入っていて、その後で真剣に議論している友人たちのほうが気になってしまう。そして、ここから映画内映画が映画に侵食し、川辺と部屋 / カップルの関係 / 自然と都会 / 過去と現在という対比を全て圧縮してしまう離れ業をやってのける。

すると再び唐突に景色は凹凸のほとんどない平原に取って代わり、70歳になった親父や幼馴染の女の子まで登場することで、ミニマルになった背景以上に都会との対比が導入されていく。例えば病院の廊下を右に曲がった見えないとこで倒れた恩師の長回しと、暴れ馬が干し草の山を左に曲がった見えないとこへ消えた後、笑いながらヤーロムが登場する二つのカットは華麗なる対比の一つと言える。しかし、こういった形式的な対比の中に安寧の地があるはずもなく、孤独な青年医師の絶望は何重にも濃縮された形で永続していく。

実に物悲しい映画はテーマと呼応するような咽び泣くトランペットの音色によって締めくくられる。彼は今後も救われないが、『鬼火』と異なるのは、それでも人生が続いていくことだろう。
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