教授

TOKYO FIST 東京フィストの教授のレビュー・感想・評価

TOKYO FIST 東京フィスト(1995年製作の映画)
-
年末年始から、何かと考えさせられている「性」と「加害」と「性別間のセンシティブな問題について、ひとまず僕にとってほぼ完璧な回答が描かれているのが本作。

初期の代表作である「鉄男」で描かれた体格的には貧弱な肉体の中にある男性性特有の暴力性を発露によって、その不完全さや孤独を炙り出していたが、早くもその「マチズモ」や「ホモソーシャル」的な意識から距離を置いた「鉄男2」から更に発展して、本作では「愛」に纏わる暴力性を三角関係の物語に落とし込んでいる。

「男性」同士が殴り合うことで戯れつく「ホモソーシャル」によって変貌していく津田(塚本晋也)と小島(塚本耕司)これは「鉄男」を踏襲した「挑発」によって暴力が発動するのだが、本作は「嫉妬心」によって駆り立てられる「女性への支配欲」が炙り出される。

ひづる(藤井かほり)が拐かされることで、ひづるの中に湧き上がる女性性は、男性に対して「対等」であることの挑発であり、男性のように「リング」に立たせてもらえないことへの怒りに集約する。
しかしそれ故に、男性側にある卑属さや、弱さを強烈に挑発し、ひづるの自傷によってどんどん津田はみっともない罵声を繰り返し、小島は生来の意気地のなさを露呈していく。

しかし、近年の「告発型」の「男性ざまぁみろ」というメッセージを孕んだ映画とは本作は一線を画している。

本作で描かれる「嫉妬」によって社会的には「みっともなく」また「愚か」である男性たちが、その醜悪さを曝け出し、あるがままの姿に立ち返っていくことによって、そして画面上で傷だらけになり身体を破壊していくことで、少なくともその愚かさは可視化され、弱さを晒して逞しくなっていく。
人を愛し求めるという率直な感情から生まれる優しさも、それ故に生まれる支配欲も、偽善的な振る舞いの奥に隠した暴力性も、全て向き合わされ、表出させられる。
そのことの真っ直ぐな爽快感が映画を支配している。

その物語の落とし所としての「オチ」の弱さは否めないところもあるけれど、それがまるで気にならないほどに、人間そのものが歪で愚かな存在として、徹底して描かれ、その暴力性は抗えないことへの諦念も抱えて正直であることが何より尊いことであると言わんばかりのメッセージにとにかく心が軽くなった。
教授

教授